odd_hatchの読書ノート

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ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-3

2016/04/04 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-1
2016/04/05 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-2
2016/04/06 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-3
2016/04/07 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-1
2016/04/08 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-2 の続き。


 文書館の関係者はアリストテレスにこだわる。これは初読時や映画をみたときにはなぜかわからなかった。高校の倫理社会ではアリストテレスのあとにキリスト教の説明があったので西洋の知識人が知らないはずはないと思ったし、アリストテレスがいるのにプラトンの名前が出て来ないのが不思議だった。
 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)を読んだら、おおよその状況がわかった。かんたんにまとめると、ローマ帝国の資産を売り払って、地中海貿易がしぼんでしまった中世中期のキリスト教社会では修道院だけが書籍を保存し、知識人を教育できる機関だった。エジプトのパピルスが輸入されないので、羊皮紙を使った。これが高いうえに稀少なので、キリスト教関連の書籍しか残さなかった(なのでギリシャやローマの古典はないがしろにされた)。
 生産性があがり、多少とも富を蓄積したヨーロッパの人々は宗教に情熱を燃やす。その熱情は12世紀からの十字軍遠征となったが、海を渡った彼らはビザンツイスラムの文化に驚愕する。そしてアラビア語訳のギリシャ、ローマ時代の文献を持ち帰り、翻訳を開始した。なお、十字軍とは別に、イスラム占領下のスペイン(アルフォンソ10世の時代から)で先に翻訳が始まっている。この学問研究で翻訳者や学者が発見したのがアリストテレス。論理学、形而上学、自然学などさまざまな知を記述し体系化した哲学に驚愕したのだった。
(アルフォンソ10世の編んだ音楽集)

アルフォンソ10世:聖母マリアの讃歌

アルフォンソ10世:聖母マリアの讃歌


 王権が強くなるにつれて、宮廷文化人が必要になる。それまでの首長社会ではせいぜい数百人から数千人の人口を抱える国家だったので、文字や文書は不要。なので、王も家臣もたいてい文盲だった。王権と領土の拡大で、統制する人口が増え、法律、税収、外交などに文書を発行せざるを得ず、ラテン語を使用できる知識人が必要になった。修道院や教会の養成では不足するので、大学がつくられる(これも在野の知識人の講義とそれを聞く遍歴学生に関する面白い物語がたくさんあるけど、割愛。とりえあえずそれで成立したパリやボローニャの大学は国家とは独立した超国家的存在だったという指摘が重要)。ここにイスラムの文化人も来るようになり、知の探究が盛んになる。そしてパリ大学は13世紀に法・文・神・医の編成になる。アリストテレスの自然学は聖書の記載と一致しないので講義は禁止された。
 しかしアリストテレスの論理学は重宝された。このころに聖書研究のやり方がかわり、以前のように物語として読むことから、文章単位で再構築して教理項目別に解釈するようになった。そうすると聖書の中に矛盾するような記述が見つかる。これを説明するためにアリストテレスの論理学が使われた(なのでウィリアムも他の修道士も三段論法を使用する)。研究が進むにつれて、聖書とアリストテレスを融合した知の体系を目指す。それほどにアリストテレスは神学において権威になっていたのだった。
 村上陽一郎「科学史の逆遠近法」(講談社学術文庫)によると、16世紀にプラトンとヘルメス学の著作がイタリアやスペインで翻訳され、南ヨーロッパ中で読まれた。プラトンイデアキリスト教の霊の思想の親近性からか、とくに学者の間で流行した。初期の科学者たちは、プラトニズムやその他の神秘思想をキリスト教の教義と融合させようという意欲を持っていた。多くの場合、そのころにはキリスト教の神学が訓詁学的な装いを持っていたので、これらの新規思想の持ち主の「合理性」「実証主義」などは後の「自然科学」に取り込まれていった。
 21世紀から振り返ると、アリストテレスキリスト教神学、プラトンと自然科学の結びつきはミスマッチのように思えるのだが、そうであったというのが面白い(というくらいしか知識を持っていないのが残念)。