odd_hatchの読書ノート

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堀田善衛「定家明月記私抄 続編」(ちくま学芸文庫)

 続編再開。中断の間は、「路上の人」を書いていたとの由。13世紀初頭の西洋と日本の中世におおよそのところで相似、共通性を感じる。宗教、政治、文芸など。
 さて、定家の時代には、平家滅亡、鎌倉幕府成立、承久の乱が立て続けに起きた。そのうえ飢饉、自然災害が頻発し、群盗が闊歩し、難民が流入するという激動もあった。そこにおいて上級貴族である定家はなにをみたか。

公卿補任 ・・・ 1211年。50歳。姉のわいろで公家の一員になり、以後出世が順調になる。

歯取リノ老躯ヲ喚ピ、歯ヲ取ラシム ・・・ 1212年。51歳。身体に異常が出、身内に死者が出るようになり、息子ははかばかしくない。この年、「方丈記」がかかれる。これはカタカナと漢字まじり。同年の愚管抄もそうだし、明月記の一部もカタカナを使用。

「日本の精神史、あるいは文学史の上から考えて承るに価する、一つの節目のようなものがこの時期にあった(P34-35)」

遊芸人と天皇 ・・・ 

天皇が、漁携の民、商工業者諸芸人――すなわち遊女、傀儡(注:遊芸外国人らしい)、舞女、白拍子等の遊芸者集団lなどの、「非農業民」の保証者であった可能性は事実として非常に高い(P37)」。「彼等こそが「諸国往反勝手」の自由通行の権利を持ち、思想心情としては、彼等は、彼等の所謂「上ナシ」という理念の保持者であった。/多くの人民にとっての、幻想装置としての天皇制は、彼等にとっては実用装置であった(略)近世に入っての、漂泊者から定着者化がすすむにつれて、これらの遊芸者集団が次第に賎民視されて行かざるをえなかったものであったろう。(P38)」。

網野善彦の研究を紹介。
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)-1
網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)-2

神剣海二没シテ絃二州廻 ・・・ 後鳥羽院、息子への憤懣や愚痴。歌作以外の芸術への無関心。

天下ノ悪事、間断ナシ ・・・ 公家になったが息子が成人して物入りが多いし、放火・強盗が横行し、荘園経営は多事多難。作家によると福永武彦「風のかたみ」推理小説とのこと(な、なんだってAA略)。

幕府歌会 ・・・ 鎌倉幕府は開府以後連続テロで血なまぐさい(フランス革命が比すられる)。

「京の不安が群盗や山僧の横行であったとすれば、鎌倉のそれは、残酷な内部闘争であった(P58)」。

そこにおいて実朝は京都に親しく、また定家とも親しい(定家は万葉集を贈ったり、歌作を教えたり)。鎌倉で孤独な実朝は次第に現実が見えなくなっていく。

明月記断 ・・・ このあと明月記は断簡化、断続、全欠が繰り返される。順調に出世して50代後半に。順徳天皇が成人して歌作が増える。

拾遺愚草完成 ・・・ 建保4年(1216)3巻成立、天福元年(1233)までに増補。

源実朝 ・・・ 政治の実権は北条義時にある時、実朝は祭祀の実行者。子供ができず病弱なので敬遠されている。そこに遣宋の大船作りという狂気の沙汰を命じる。この計画はとん挫したが、無用のものと自己規定した実朝を鎌倉幕府義経ら同様許さないであろう。

危機への傾斜 ・・・ 1219年。実朝暗殺。その余波。幕府と後鳥羽院の抗争がむき出しに危機的様相になる。このころの朝廷は日本を歌名所として把握、経済や産業の場所としてはみていない。宗教でも密教的旧信仰に固まって、顕教的新信仰(禅宗、浄土宗など)に目を向けない。

為家の結婚 ・・・ 子息の為家の妻(宇都宮頼綱の娘)を関東から迎える。君臣の間で、経済生活についての紳が切れかかっている。

定家、後鳥羽院の勅勘を蒙る ・・・ 1220年。59歳で、後鳥羽院の激に触れ勘当、閉門される。世の同情は定家側。和する歌としての宮廷芸術のあり方を述べ(気心の知れた仲間内での叙景、叙心。これが通じることが必須)、定家の個人的な心情が宮廷の気心を知る共同体から離脱しているという。

歌学から家学へ ・・・ 

「芸に関することは、芸それ自体において独立せず、家芸として独占的に成立して行く傾ぎがいずれの分野においても強いのであるが、定家はその具体的な先駆者である(P139 )」。

承久の乱 政治と文学 ・・・ 1221年。後鳥羽院42歳。北条義時調伏のための修法を後鳥羽院は最重要視していたとのこと。すぐに軍は敗れ、後鳥羽院隠岐に流刑。反乱の弁明はせず、歌に没頭。1239年、60歳で没す。一天皇上皇が流刑。連座するもの多数。宮廷文化の人工性の極致に達したとき、その首謀者もろとも文化が消える。歌会が消え、連歌ばかりが盛んになる。定家明月記は語らず。

歌の別れ ・・・ 1223-24年。62-3歳。明月記欠。歌論を書いても、作歌せず。

京都頼廃言語道断ノ事カ ・・・ 1227年。明月記再開。政子、大江広元慈円など死去。源氏物語筆写完。

京都頑廃年号毎日改ムト雛モ ・・・ 世情騒乱。対応貿易で西園寺家が興隆。「異形、異類の非人、悪党」など一般民衆、下層民が歴史に現れる。

京都類廃 百鬼横行 ・・・ 京都政権の検非違使を飛び越えて鎌倉幕府六波羅が捜査権を持つようになり、宮廷は抗議できない。皇室にかかわりのあった寺社は次々と廃絶、あるいは煙火のなかに滅びて行く。

眼前二公卿ヲ見ル ・・・ 息子が公家になり、子供や孫も生まれ、新邸を築造して、定家はめでたい。

花と群盗 ・・・ 1228年。新邸ができたので庭作り。京の出来事をジャーナリスティックに記述。

正二位ハ人臣ノ極位ナリ ・・・ 世情騒乱。地方の荘園は地頭の手におち、所領といっても経営できない。しかし宮廷は華美三昧。

初月糸ヨリモ繊ク、山ヲ去ルコト縄(わずか)ニ五尺 ・・・ 1229年。68歳。病弱にして老年の相。月と草樹に親しむ。作家も同じ年齢であって、老年の不自由に寂しさに身をつまされる。

金銀錦繍ヲ着シ渡ル ・・・ 主家の付き合いで関白道家の娘の衣装を負担しなければならない。当時の日宋貿易について。

痢忽チ下り矢ヲ射ルガ如シ ・・・ 1230年。飢饉、10月28日の客星(かに座の超新星爆発)。

「先の中納言位に対する猛烈な執念や、周囲に対する強い観察欲、そうしてその後に来る記述欲などが、老齢を支えて長寿を可能にしているものであるかもしれない(P257)」

前代ノ御製尤モ殊勝 ・・・ 定家は百首歌を構想し、道家からの勅撰集撰進の依頼がある。流刑になった三上皇が存命中にどうするか。協議のうえ延期。

死骸道二満ツ ・・・ 1231年。飢饉ますます盛ん。天災、大飢謹、疫病、大火が起こる。

「京に、もはや治安も衛生もありはしない」「地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙の世界は、現実そのものに他ならない。天台その他の国家宗教等も、かかる飢えた民衆に対しては、宗教とは名の承で、何のかかわりも持ちえない。かくて、この地獄から立ち上るには、京の「町衆」への道、「京童」たちの、無頼にして自由潤達な活躍の時代が来てくれなければならず、それはすでにここに用意されて来ているのである」。

涼秋九月、月方二幽ナリ ・・・ 

万葉集の頃から、梅は中国渡来の花木として珍重されつづけて、庭に梅の木があるということが、一つの社会的ステータスを示すものとなっていた(P272)」

「和歌という詩形式は、どうにも老年の心境吐露には向かないのではなかろうか、と、こういう歌を眺めていると思わざるをえなくなって来る(P275)」

新勅撰集撰進 ・・・ 1232年。「新勅撰和歌集」集成。この年、御成敗式目五十一ヵ条制定。こののち、京都と宮廷が東国武士の憲法に拘束されていく。

平安文化終駕群盗横行、金銀錦繍 ・・・ 1233年。群盗、石つぶて、社会解体。今日の貴族はこぞって東国武士の娘を妻にする。財貨をもたらすとしてもおそらく文盲であり、平安文化の最後の灯も断たれることになる。

定家出家、法名明静 ・・・ 同年10月11日、定家出家。

「世俗における責任を解除された形姿をとっての晩年の過し方には、いっそ優美なものをさえ感じさせる(P300)」

明月記、終 ・・・ 出家後の点描。「新勅撰和歌集」の完成。小倉百人一首の編集。1241年死去、享年80歳。すでに後鳥羽院、家長、家隆は亡くなっている。

後記――さらば、定家卿・・・ あしかけ8年間の連載終了。定家にさらばとあいさつし、お疲れ様と作家を慰労したい。


 上記のような政治的経済的な大変動があり、乱世というしかない混乱と暴力の時代であった。しかしその時代に、純粋さ抽象化をめざした芸術様式が完成し、その最高峰として「新古今和歌集」が成立した。あるいは実朝の「金槐和歌集」も入れられるかもしれない。この芸術は一人の天才が押し上げたものではない。本歌取りと手法とする人工的な作り方が作法になり、だれもが勉強と修練をしなければならず、それでいてだれが読んでいるか誰が鑑賞するかを互いに知っている閉鎖的な集団が継続していることが成立の条件だった。すなわち生産活動に携わらず、古典を読み、家族で研鑽し、ときに師匠に教えを請い、頻繁に和歌会を開くという貴族階級が京の狭い土地にまとまって暮らしていることが必須だった。この高みにくるまでには、400年ほどの歴史を必要とした。
 だから、承久の乱によって天皇ないし法皇が統治するという仕組みが解体し、天皇家とそれに連なる貴族の権威と権力が失せてから、この芸術集団も解体する。上のような「雅」な生活が成り立たず、東国武士の武骨で真面目て禁欲的で抑圧的な論理と倫理が宮廷に入ると、もはや和歌という芸術を継続できなくなる。実際に、このあと宮廷からは目を見張るような文芸はでなくなる(と思う)。
(見当はずれかもしれないけど、のちに正岡子規古今集新古今集をこき下ろし、万葉集を評価した。それまでの識見をひっくり返した。これは正岡子規が愛媛の田舎者育ちで、京の宮廷文化とは疎遠だったところからの評価なのだろう。)
 という具合に、1200年の前後を定家という歌人の記録からみてきた。通常は、日記の記載にこだわって定家の生涯とせいぜい宮廷の数名にフォーカスするところを、作家の眼によって宮廷全般のみならず、東国の武士やそこになじめない孤高の貴族(実朝)まで鳥瞰する。そのうえ京の路上の人から新興宗教創始者まで、日宋貿易から遊芸者まで包括する。その広さには驚嘆し、最新歴史学ほかの学問も参照しているとなると、これを読むことは凡百の歴史書、教科書を読むより勉強になる。まことにありがたい。
 著者の「美しきもの見し人は」のヴェラスケス「宮廷女官像」には、画面奥の何者かがカーテンを開けて絵を見ている。この男を作家は「私がヴェラスヶスの仕事場に派遣したスパイ!」と喜ぶのだが、「定家明月記私抄」を読みおえた自分にとっては、定家(および長明)こそが作家の送り込んだスパイであり、作家はその報告を緻密に読み取る情報官であると思えるのだ。この国では屈指の乱世の時代。この数十年の変化がこの国のあり方を大きく規定した(というかいまだに桎梏されている)。その時代を鳥瞰するのに、この三人がいるという僥倖。
(定家の視点は上級貴族のものであるので、もっと低い階級からの視点として同じ作家の「方丈記私記」を合わせて読むといい。)