odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

イタロ・カルヴィーノ「柔らかい月」(ハヤカワ文庫、河出文庫)-2

2022/07/14 イタロ・カルヴィーノ「柔らかい月」(ハヤカワ文庫)-1 1967年の続き

 

 以後はQfwfq氏の名は出てこない。でも「ティ・ゼロ」で「私Q0(0は小文字)」と表記されるので、Qfwfq氏が語り手だと推測可能。

第三部    ティ・ゼロ
ティ・ゼロ ・・・ 突如ライオンと便宜的に呼ぶ動物に襲われ、射った矢が「私」とライオンの距離の3分の一を通過した瞬間(しかし現代の機器で測定可能な継続)、「私」が考えること。いわば「シュレディンガーの猫」がはいっている箱のふたを開けられた瞬間(とは何か)に猫が体験したことだ。その執拗な記述。すると、この「瞬間」に至る前に宇宙開闢から経過した数百億年(ママ)の間に様々な可能性があり、瞬間の直前(とはなにか)にも別のあり方に至る可能性があったのに、矢を射った時(とは何か)に現在(とは何か)に可能性が収れんして他の選択ができなくなってしまった。タイトル「ティ・ゼロ」は「私」が固着したいユートピアのような「射った矢が「私」とライオンの距離の3分の一を通過した瞬間」であるが、同時に死もさしている。
深水黎一郎「ミステリー・アリーナ」(講談社文庫)

追跡 ・・・ 渋滞にはまってのろのろとしか動かない自動車を運転している「私」。実は後方から暗殺者の自動車に狙われているのだ。自分の意志通りに運転できない状況で、相関的な位置関係だけが未来を決定する。すると周囲の自動車もまた追跡者と非追跡者であるのではないか。信号が変わった、そこに「私」は追跡している男の驚愕する顔を見つける・・・。のろのろ運転の説明がスピノザの「デカルトの哲学原理」にある物体の移動の説明と一緒(笑った)。60年代の交通事情はどこも同じと見えて、同時代の短編を紹介。こちらでは渋滞が一時的な協力関係体を作るというユーモア。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」@「悪魔の涎・追い求める男」(岩波文庫

odd-hatch.hatenablog.jp

夜の運転者 ・・・ 怒って恋人に別れると言ってしまったのを後悔して(恋敵にとられるかも)、彼女の部屋に行こうとする。雨の夜、ふとすれ違った自動車に懸念が起きる。もしかしたら恋人が「私」のもとに向かっているのではないか。すれ違いになると事態は深刻になる。「私」は途中でガソリンスタンドに降りて電話を変えるが不在。「私」がすべきことは家に戻ることか、おそらく途中でまた電話をかけ彼女の家に向かうだろう。その途中にまた電話をかけて家に戻る・・・。メッセージを発しているのに誰も受信できないので、永久運動が起こる。携帯電話とインターネットの時代にはありえなくなった寓話。

モンテ・クリスト伯爵 ・・・ 孤島の牢獄シャトー・ディフ(本作ではイブ)に囚われたモンテ・クリスト伯が脱出の方法を検討する。ファリア師は牢獄に穴を掘っているが、常に失敗する(モンテ・クリスト伯の牢獄の壁が崩れてファリア師が天井を歩くようになる)。牢獄は膨張してファリア師の作業は決して膨張に追いつけないとか、モンテ・クリスト島の財宝を見つけるために島の中心に向かうこととイブ島からの脱出のためにイブ島の中心から離れることが同じであるとか、自分の脱出はすなわちエルバ島からナポレオンを脱出させることと同じであるとか、脱出方法を知るにはデュマの書斎に忍び込んで小説の先をよむことであるとか(二人の助手にアイデアを出させそれを取捨選択したり膨らませたりしてデュマは小説を書いていたという。そうすると、小説がどうなるかは決定事項ではなく、多数の可能性があることになり、デュマの決定である一点に可能性が収れんすることになる)。ついには

「(脱出の)可能性を見つけ出すには架空の砦と実在の砦との一致しない点を探し当てればよい(P204)」

というところまでに行く(そんなん、一致しない点など無数にありすぎて決定不可能になるじゃん。読んで笑った)。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」は以下のエントリーで。

odd-hatch.hatenablog.jp

 

 だれもが論理のわなにはまって、行動できなくなっている(最後のモンテ・クリスト伯も、妄想を様々に広げるが、具体的なアクションをしない)。いや、行動しないための理由をつくるために、決定不可能なことを延々としゃべり続ける。
 これを第三者視点でみれば、語り手は事態を鳥瞰することができなくなっている。「ティ・ゼロ」の環世界はライオンと矢と自分だけ。「追跡」「夜の訪問者」は外部の情報が入らず発信できない密室にいる。「モンテ・クリスト伯」は牢獄に閉じ込められて内部と外部がないと思うまでになっている。似たような密室は「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号だろうが、惑星間宇宙船には地球からの通信が入ってきて自分らの位置と事態を把握することができた(まあ超遠距離によるタイムラグは殺人を可能にしたのだが)。でも「第三部    ティ・ゼロ」の語り手はそのような外部を持たない。鳥瞰する視点を確保できる情報を入手できない。それがとても論理的な思考なのに、とんちんかんなお喋りになってしまう理由なのだろうなあ。
(なので、この短編集を読んで思ったのは、独我論や唯我論の「この私」から始まる思考は「第三部    ティ・ゼロ」によく似ているということ。外部を想定しない思考は超越論的な視点を導入しても内部からでられるわけではなく、個々の短編のような堂々巡りをする。あるいは妄想の隘路にはまっていく。)
<参考エントリー>
2016/09/02 山田正紀「神狩り」(角川文庫) 1974年
2011/07/16 コリン・ウィルソン「賢者の石」(創元推理文庫)
2011/07/14 ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子 上」(文芸春秋社)
2016/04/13 ウンベルト・エーコ「前日島」(文芸春秋社)

 ひょうひょうとしているかどうかはわからなないが、こういうお伽話を次々と作れるカルヴィーノはすごいなあとか、方法を徹底していく集中力はすごいなあとか、それでいてユーモアを忘れないのは余裕があるなあとか。一味違った小説家。