odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「司馬遷」(講談社文庫)

 中国の古典を読むときによくある失敗は、本の中に入り込みすぎ、しかも「神」のような超越的な場所から人物評をするということ。そうなると、項羽はどうこう、劉表はあれこれ、呂后はなんだかんだ、という具合に読者の身の丈を超えて、彼らを評価し、現代のビジネスにおいては項羽のこういう決断力と実行力を、劉表のこんな人徳を発揮せよというお説教を聴くことになる。こんなくだらない本のなんと多いことか。
 さて、30歳の武田泰淳はそんなことはなくて、まず「史記」を読む。そこに書かれた数百年分の「事実」から「歴史」をどのようにみるか。「人間」とか「天」などのキーワードをたくみに使ってこれらを読み解く。その手腕もさることながら、武田泰淳はさらにこの膨大な史書を書いた「司馬遷」という男にも注目する。「生き恥さらした男である」という規定から始まって、彼の生き様までも読み取ろうとする。すなわち、「史記」を書く「司馬遷」の肩越しに中国の歴史を眺めるという仕組みになるわけだ。
(友人を弁護したために死刑を命じられる。罰金を払うか宮刑を受けるか。彼は罰金を調達できなかったので、宮刑を選択する。まあメンツを重んずる社会では、男が男でなくなるというのは、耐え難い苦痛であるわけだ。それを引き受けて、代わりに歴史に名を残そうと「史記」という著述に打ち込んだ。)
 てな具合に、武田泰淳の肩越しに、司馬遷の肩越しに史記世界の英雄、刺客、思想家をみるのだ、その複層的な視線のめぐるましさにわれわれ読者は幻惑され、魅了される、云々を書こうとしたが挫折した。そういう書き方をするには未熟ですので。
 代わりに考えたこと。この評論は昭和19年に書かれている。もはや「言論の自由」というのはなくて、時局批判などできない乱世にあった。そのとき、古典を読むことは現実からの逃避に見えながらも、よく目の見える人には歴史から現実を批判することが可能になる。この評論の最後が「匈奴」についてであって、当時の中国の外部であった「匈奴」をどのようにみるか、対処するかで司馬遷の意見を書いている。それはすなわち武田が中国侵略を行う日本政府批判の視座につながる。書いてあることは2000年前のことであるので、批判された軍部の側は武田をどうこうすることはできない、でもわかる読者にはわかるという仕組み
 たとえば堀田善衛は「方丈記私記」「定家明月記私抄」でも同じことをやっていて(書いた時期はずっとあとだが)、なるほど「古典」を読むのはそういうことかとうならされて、勉強になる。