odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「生物から見た世界」(岩波文庫)

 1980年代にこの本はよく紹介された(翻訳初出は1973年)。プリゴジーンの「散逸構造」理論とセットで取り上げられることが多く、生物学よりも哲学思想の人が語っていたとも記憶する。どちらも高価な本だったので、当時は読めなかったが、21世紀に文庫になったのでようやく読書。長いことかかったなあと感無量。個人的にはUmwertは当時の述語である「環境世界」のほうがあっていると思うのだが、訳者によって「環世界」になったので不本意ながらそちらを使用する。

 通常、環世界は

「普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる」
環世界 - Wikipedia

と定義される。これだけではユクスキュルの考えは網羅していないので、この本に沿って追加してみる。生物を機械とする見方は昔からあったがモデルがぜんまい時計であるように活動の自立性とか主体とかは「ない」とされてきた。というのは、彼らの刺激受容体や反応体が人間と比べて貧弱であるとか、運動パターンが少ないとかのため。なるほど受容体や反応体は人間と比べると「貧弱」かもしれないが、彼らの内部の構成はとても精密にできている。さまざまな環境刺激から生物は知覚標識を選択していて充実した知覚世界を構成している。受容した刺激に反応して生体を動かす実行器の運動や反応も精緻で合理的。知覚世界と作用世界を統合して「環世界」と呼ぶ。
 この本では刺激を受容したあと反応するまでを器官に組み込まれた機械操作系(メカニズム)といい、「主体」と呼ぶ。この主体は哲学に出てくる主体ではないし、今西進化論にでてくる「主体」でもないと思うので念のため。21世紀であれば「プログラム」とか「システム」とかで言い換えたほうがよいかもしれない。(この本の別の文脈では、生物を観察する研究者の視点を「主体」と呼び、観察される生物を「客体」と呼ぶ。観察する側は対象を自由に選びとれるから「主体」とされるわけだ。こちらの使い方は哲学に出てくる「主体」に近い。「環世界」はこういう観察-対象の主体-客体問題とは関係ないところで構想されている)。
 で、こうして環境は生体や生物によって意味を配置された世界になる。種や個体群によって知覚世界を構成は異なり、世界の意味は違う。これは西洋が過去500年ほど考えてきた均質で同等の時間が流れる時空間(デカルト的な空間)とはまるで別の世界像。たとえばダニは酪酸と毛と皮膚を知覚するだけだが、その世界と生物は緊密に結ばれている(ちょっかいを出すと木に登るときに重力も知覚していると思うのだがいかが?)。環世界の概念は「人間中心主義」を批判することができ、人間の認識方法や構成概念を他の生物に押し付けるのを停止するように働く。
 知覚世界を構成するとき、種によって構成手段がかわる。哺乳類は三半器官が空間認識のもとになるが、ミツバチだと触覚になる。同じ個体でも空間認識は成長によって異なり、同じ人類でも最遠平面は幼児と成人で違う(子供が「お月様とって」というのは最遠平面が近くにあって、それより先にあるものは遠近がつかめないため。幼児のファンタジックな心象とか知識不足に由来するのではなくて、幼児のリアルであるわけだ。目からウロコの指摘)。時間もそうで、人間の一瞬は1/18秒だが、昆虫はもっと早く、カタツムリはもっと遅い。知覚受容体によって構成される知覚世界はモザイク状になっていて、個体にとっての意味とか価値には濃淡がある。それをユクスキュルは「トーン」と呼ぶ。また刺激-反応の繰り返しから「なじみの道」「家(なわばりでもあるかな)」「故郷」などを構成する。彼らの環世界をさらに分割して「意味」を厚くしたのが、個体による選び取りがある。この本ではほかに原生生物、昆虫、魚などのさまざまな環世界が描かれる。とても面白い(哺乳類や鳥類の例には著者の友人であるコンラート・ローレンツ博士によるものがあって、博士の「ソロモンの指輪」「攻撃」など動物行動学の古典を読んでおいた方がよい)。
 注意するのは、記述される環世界はすでにできあがっているとして書かれていること。生物が独自の環世界をどのように構成してきたのか、起源や由来や原因などは問題にされていない。環世界のHowは説明しているが、WhyとWhenは一切触れていない。1934年当時であれば仕方がないか。それに、環世界が進化の結果であるのか動因であるのか決めるのは難しそう。環世界は生物とは別個に「ある」のではなく、生物が「世界-内-存在」(注意:このハイデガーの用語を持ち出したのはユクスキュルではなく、評者の自分。ユクスキュルがハイデガーに共感しているかどうかは不明)であることの記述なのだと考えたほうがよさそうで、そうするとユクスキュルが起源や由来や原因を一切書かないのは妥当だと思う。
 このようにとても楽しく読んだのだが、環世界のアイデアにはアンビヴァレンツな気持ちがある。ひとつは、この本は1934年初出なので、知見も図版も古い。アップデートした解説書があるといいなあ(もうあるのかもしれないが知らない)。あと、哲学の認識論がデカルトの望遠鏡モデルをずっと継続しているので、環世界のアイデアを利用して認識論を書き換えてほしい(これももうあるのかもしれない)という積極的なもの。
 もうひとつは、「環世界」アイデアの安易な拡張が目につくのであまり使いたくないという否定的なもの。アフォーダンス理論と似ているところから、環世界は主体である人間個人が書き換えていくということが言われたりする。そうかなあ、環世界は種とか集団で共通な認識構成の方法で、とても保守的で個体が上書きしたり書き換えたりする/できるものではないと思う。なるほど知覚受容体に障害がある個体でも、他の個体と共通するような環世界をつくるようだが、それは個体が新規に構成したというより、使われていなかった構成方法が強化されて不足を補完したと説明できる。社会との関係のとり方に苦しんでいる人に「環世界を変えよう」みたいな言説はユクスキュルのアイデアを誤解させるだけ。そういう場面では「環世界」を使わないほうがよいと思う。
 あと、「環世界」が生物学の研究方法の拡大には結びつかないのではないか、という懸念。さまざまな種の異なる「環世界」を枚挙して、さてそれで次はなにができるの?という疑問があるのだ。ここは勉強不足なので、自分の誤解かもしれない。
 ここまで書いてネットをみると、環世界のアイデアは「環境学」の基礎になっているとのこと。これまでに読んだ本でいうと、今道友信「エコエティカ」(講談社学術文庫)加藤尚武「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリ)に関連するのか。「環境破壊」「環境保全」の意味や価値を検討する際に、人間中心主義に陥ることを戒める論理になっているのだね。