1991年初出。「環境倫理学」をこの国に導入した哲学者?の啓蒙書。いろいろと「過激」な主張を読んできたものだが、これもそのひとつ。自分のように近代主義と自然科学にどっぷりと浸かったものには、ここで主張されることはいろいろ気に障って仕方がない。
環境倫理学の三つの基本主張 ・・・ 環境倫理学は3つの主張が基本。
自然の生存権の問題(人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。)
世代間倫理の問題(現代世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。)
地球全体主義(地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。)
技術は選択可能性の幅を広げるが、倫理は選択可能なものから最前を選択する方法。技術が最善可能性を達成できないとき、最善ではない選択を倫理が行うことがある。
「中之島ブルース」 ・・・ 人間中心主義と自然中心主義の対立をSF漫談風に説明。
世代間倫理としての環境倫理学 ・・・ 近代化によって「過去世代には遠慮しない」という文化にしたがそれは「未来世代に責任は負わない」を含んでいる。資源枯渇、環境破壊などが典型。この考えとシステムを変えなければならない。
地球全体主義の問題 ・・・ 近代の観念は無限空間を前提にしていて、自由や平等は無限空間において実現可能(自由や平等の拡大は国家の拡大と同一とされた)。しかし、地球は閉鎖的であるので、行為は相補的(野生の草を取ることは個人の自由と考えられるが、それは他者の同じ権利を侵害するという具合)。なので、個人には自由を組織には制限を、が新しい倫理になる(原著では組織ではなく国家だが、自分の考えで「組織」に変更。企業や組合などを組織に想定)。
日本の使命 ・・・ 環境問題に対してこの国が大国にふさわしい判断力と指導力を発揮することが必要。その際、官僚倫理学と技術の専門家の育成が大事。ちなみに、愛国心はこういうふうに発露すべきで、国歌や国旗はナンセンス。他国から尊敬されるかという他者評価が必須。
人口と環境 ・・・ 人口増があるのはこの200年くらいのこと。いずれ定常人口に戻ると予測。急激な人口増で資源を浪費してきたので、このあと人口減が起きる時代では「何かを切り捨てなければ生きていけない」になる。「経済成長も環境保護も」は成立しない。
バイオエシックス ・・・ 環境倫理学は、未来への責任が優先、権利を客体(自然物など)にも拡大、地球生態系の存続を個人の存続に優先させる。なので、自由主義の生命倫理学と全体主義の環境倫理学は対立する。なにしろ自由主義は経済的にゆとりのある社会でないと成立しないし、地球規模では格差を拡大している。これは不合理であるとみなす。
ゴミと自然観 ・・・ 客体にまで権利を拡大すると、人間のものの所有(と処分)は客体の権利の侵害に当たる。なので、所有するものの廃棄には、負担や責任を持たなければならない。
世代間倫理と歴史相対主義 ・・・ 世代間倫理を拒否する人への反論。趣味、価値観の選択と命の選択を混同するな。
未来の人間の権利 ・・・ 世代間倫理を西洋人は社会契約や相互性や法などで説明しようとする。でも、放射性物質や分解の遅い毒物を生産したり、復活に時間のかかる環境破壊をすることは未来の世代の可能性を奪うことになるという点だけで、説明可能だろう、他者を巻き添えにする人権侵害は許されないよ、で説明可能。
権利はどこまで拡張できるか ・・・ 環境倫理学は権利を人間だけでなく、動物、植物、環境にまで拡大する(中世には木や昆虫を裁判にかけたことがあるので、決して突拍子もない考えではない)。ただ、権利の根拠を知性や対応能力などに求めると、人間の権利を縮小することになるかもしれない(胎児、植物人間など)。
アメリカの自然主義と土地倫理 ・・・ 通常、所有している商品は自由に処分(転売、廃棄、加工など)してよいが、それは土地には当てはまらないという考えが土地倫理。人間の自由な処分だとその土地に住む他の生物の権利を侵害することになるから。なので、その土地の生命共同体の権利が優先される利用が正しいというのが、土地倫理と環境倫理学の考え方。
生態学と経済学 ・・・ マルサスの人口論は無限の成長が不可能であることを示したが、マルクスは科学技術と社会体制の革命で回避可能であると考えた。その根拠は無限の空間と資源があると考えたこと(および生産性が無限に向上する)。一方ミルは成長の限界が不可避であるなら、成長を止めて定常社会にすることを考えた。こちらは経済学の主流にならなかった。
再考、再興、自然主義 ・・・ 環境倫理学は自然主義と親和性は高いが、俗流自然主義(シューマッハ「スモール・イズ・ビューティフル」、ロビンス「ソフト・エネルギー・パス」のような)とは相いれない。俗流自然主義の精神主義は問題を解決しない。解決の可能性は人間と自然が主体と客体であるという近代的二元論と、その展開としての自然科学以外にない。
自分はシューマッハ「スモール・イズ・ビューティフル」を読んだ時に違和感があったり、バイオエシックスの人間優先主義とか知性主義になんとなく反感をもったり、「ロハス」の主張と商品に失望したりしたのだが、ここでは先取りに批判されていて、違和感や反感、失望の理由を説明する内容が書かれている。そこはとても痛快。近代の法治主義や正義は「愚行権」を受け入れなければならないが、環境倫理学だと「愚行権」を行使するひとびとに介入する根拠を持つことができるのだね。それは面白いことだが、一方で全体主義の社会をつくることになるので、それを実現するのはどうかなどといろいろ考えてしまう。
世代間倫理を受け入れるとなると(これはこの国の人々には容易だと思うがどうだろう)、環境倫理学の主張も理解しやすくなる。なるほど、表面的にはアニミズムの復権、東洋思想との親和性などを説かれると、「トンデモ」のにおいがプンプンしてきて、それだけだと自分は拒否するのだが、最終章にあるように安易な自然主義や精神主義は排除され、科学技術に期待するしかないと主張されると、それにはうなずくしかない。そこまでの主張になると、小宮山宏「地球持続の技術」(岩波新書)との接点ができる。
とはいえ、経済が停滞し、失業率があがり、賃金が上昇しないで、増税が行われるという状況では、目前の自分の生存の維持に目が向いて、世代間倫理のことを忘れてしまう。人口は定常-増加-定常になるというモデルを示していて、だいたいそのとおりにこの国ではなっているのだが、2009年ごろからの人口減と高齢化社会をどのように乗り切って、人口と経済の定常化(資源とエネルギーの循環化もか)を図るかというところは、この本には書かれていない。まあ四半世紀あとのことだったからね。しかし、予想より早くこの国の人口減と高齢化が始まったとなると、そこをどうソフトランディングするかというのは、示唆がほしいなあ、というのが2013年に読んだ時のひっかかり。
あと、原子力発電や動物実験の廃止を主張したり、物質文明から精神文明へと主張したり、ロハスを実行するような人たちはこの本を読んで、この本にある批判をどのように克服するか考えてほしいな。たぶん彼らは読まないだろうけど。
「新・環境倫理学のすすめ」2005年も出ている様子。