odd_hatchの読書ノート

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エルンスト・ヘッケル「生命の不可思議 下」(岩波文庫)

2016/09/13 エルンスト・ヘッケル「生命の不可思議 上」(岩波文庫) 1904年 の続き。


 ヘッケルが構想する生命の起源では、まず核のないプラスマ(原核細胞にちかいのかな)が生まれたとする。でそれが、生物の基本形で、生命現象の物質的基礎である。ミラーの実験もまだ先、オパーリンの仮説も出ていない、という時代なので、いきなり原初の細胞が生まれるとするのは仕方がない。このプラスマは、宇宙的な霊的進化と軌を一にしていて、自生的・自発的に変化・適応していく。目的論的機制があって、何かの目的をもっていてそこに向けた変化・適応を遂げていくという。そういう運動の歴史が生物の多様性や複雑さの原因になっている。

 ヘッケルはダーウィンの進化論をとても熱心に擁護するのだが、細部では異論を持っている。ヘッケルがダーウィン進化論の重要な特徴とみなすのは、遺伝・変異(適応)・自然競争のみっつ。自然選択(natural selection)は無視。というのも、ヘッケルの考えでは、プラスマという原初細胞というかプロトタイプを構想したので、そこは変化しないで、形質を変えていく。適応にあたっては細胞や個体の進化は獲得形質の遺伝で説明されるとする。ヘッケルの構想は機械論的な機序で宇宙から細胞までを説明することにあって、それぞれのレベルにおける単位に自発的・自生的な「意思」を見出す。変化の方向や変異はプラスマが主体的に選択・決定する。自然選択のような環境の変化に受け身であるような生物の変化を認めないわけだ。ダーウィンとラマルク(俗流解釈であるが)の奇怪な混合。もしかしたら、20世紀初頭の若い学徒が熱中したのは、このような生物の「意思」で環境や自己を変化できるという考えへの親近感だったかもしれない。
(生物の「意思」が進化を進めるという今西進化論が復活したのも、学生運動の華やかな昭和40-50年代だったし。柴谷篤弘もラマルクと左翼思想、とくにレーニン主義との親近性を指摘していたし。レーニン唯物論と経験批判論」にはヘッケルへの言及があって、ほめているらしいとのこと。レーニンの本か。読むのは面倒だなあ、どうしようかなあ)。
 ヘッケルの宇宙論と生物観をつなぐのは、「無機自然界の器械的進化」と「目的論的機制」というメカニズム。神のような創造神や超越神は想定しないし、「活力(ヴァイタリズム)」のような生気論ないし魂の存在も否定する。というのは、プラスマだかフロネマにおいて、意識と精神活動と物質が結びついているので、それ以外の「なにか」を持ってくることは無用なのだ。意識もことに中枢神経における化学的反応に還元できるという。そうすると心霊(ゼーレ)は脳髄における活動であり、それは神経(ネルフ)を通じて細胞につながっている。脳髄は情報の交感・整理をする場所であって、精神活動を行うのは末端の個々の細胞に他ならない、という。そうやって意識と身体はプラスマだかフロネマで結合することができたので、哲学と生物学の同一線上に並ぶ。そこにおいて、「形而上生物学」も構想できるのであり、そのような学問成果もヘッケルによって収集紹介されている。また、宇宙は神であり自然であり、統一された全体であるのだ。そこで起こる進化や機制というのは生物においても共通していて、生物は存在それ自体が目的である(さらに細かく言うと自己保存と種の保存が目的)となる。
(なるほど夢野久作ドグラ・マグラ」の発想とか、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のネタとかはここにあるのか、と驚愕することになる。大瀧啓裕「エヴァンゲリオンの夢」(東京創元社)では、アニメの世界をデカルト的な心身二元論を極端にしたものといっていたが、ヘッケルの構想との親近性を見れば、アニメにおける魂の交換とか使徒から人間、神への存在の連鎖もヘッケル的な一元論とみなすことができそうだな。)
 このような奇怪な考えが述べられるが、ほとんどの記述は当時の生物学の知見を並べあげることにある。そして1970年代の高校の生物教科書にのっているような分類学、解剖学、生理学、細胞学、進化論をほぼ網羅する。ないのは遺伝学と分子生物学。それくらいに広範な知識が書かれていて、ときに偏執的ともおもえるほど細部に及ぶ描写があり、さらに当時の研究者の考えとその批判も加わる。形而上生物学を構想するのであって、ここにはプラトンアリストテレス、ルター、デカルト、カント、ショーペンハウエルらの哲学者の名前とその思想のいったんも語られ、読み通すための知識も広範であることが要求される。当時の学生らが挑戦するにはなかなか歯ごたえがあるが、いかんせん本人の主張があいまい朦朧としているうえ、すでに捨てられた仮説や主張の記述が大半であることからすると、よほどの好事家か科学史研究者でなければ読む必要はまったくない。その好き者のひとりである自分にしても大半のページはななめ読みに、それでもあくびをこらえるのに苦労したものだ。
 さて、この本でとりわけ気に入らないところをあげる。すなわち、この人はほとんどすべての現象に進化、系統発生を見るのであるが、そこには単純なものから複雑なものへという流れとあわせて、劣等なものから高等なものへという流れもあるとする。この人は人類の起源と進化の考えを集約して、広めることに成功したのであるが、彼の構想する人類史では民族によって優劣が決まるとされる。もちろん最高位はヨーロッパの白人種(とりわけ金髪碧眼の北方人種)が優秀な高度文化民族とされる。文化民族の下に文明民族がいて、アジアでは日本、中国、インド、トルコくらいが入る。それ以外は低位の文明民族であり、未開部族は野蛮人、滅んだ種族は原人。そういう優劣の価値を含んだレイシズムをもっている。さらに進めて、劣位の民族は高度な民族の役に立つべし、となって、優生学を主張するに至る。ヘッケルの人類の起源と系譜はそのあと長年にわたって影響がのこる。猿人から、原人、旧人、新人と進化したという単一の系譜があやまりであることがわかるにつれてこの呼称は止めるようになっている。そこにはヘッケルのレイシズムを破棄する意図も働いているだろう。時代の制約で仕方ないとはいいながら、どうにも気分が悪い。

  

<追記 2019/10/18>
 荒畑寒村が1910年代に獄中生活をしていたときに、堺利彦の差し入れでヘッケル「生命の不可思議」(英訳)などを読んでいた。寒村の感想がヘッケルの考えを簡潔にまとめているので画像で紹介。
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