odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ブラッキング「人間の音楽性」(岩波現代選書)

 「音楽は世界の共通言語」という主張を聴くことがあるが、半分くらいしかあたっていなくて、世界の多くの人が音楽とみなしている語法で書いた音楽を演奏すると、世界の多くの人はそれを音楽とみなしてくれる、ということだ。知っている語法から外れた音楽は、時にそれが音楽であると思わないことがある。友人にガムランを聞かせたら「お経見たい」という感想が返ってきたことがある。あるいは、エジプトの作曲家ハムザ・エル・ディンはヨーロッパ留学中にはじめてオーケストラのコンサートにいったとき、チューニングばかりしているのに驚いたという(CD「ハムザ・エル・ディン ナイルのうた」VICG-60326の解説)。それまで聞いてきたエジプトの音楽と照らし合わせると、西洋古典音楽がチューニングに聞こえるという経験を述べる。たぶんそれは、西洋音楽がこの国に導入されたときにも同じであったはず。堀内敬三「音楽五十年史」(講談社学術文庫)が参考になって、NHKがラジオ放送を開始して、ソプラノ歌手の歌を放送したら「ニワトリの鳴き声みたいな声を流すのをやめろ」という趣旨の投稿があったという。背景にあるのは、そういう事情や認識。
 というのも、音楽は社会と文化と関連していて、そこで生活しているなかで、何を音楽とみなすようになるかが人間に形成されるから。そのような音楽は、優劣をつけるような共通の体系や価値観を持っているわけではない。たんに異なっているだけ。そういう考えは、19世紀終わりの比較音楽学から始まり、20世紀前半の各国の民謡採集運動などで広まり、20世紀半ばには民族音楽学という音楽学の分野もできるようになってから。あるいは文化人類学者の中には、音楽研究のためにさまざまな部族にはいって、その音楽を習得したりするようになる。自分の知っている例では、アメリカの作曲家コリン・マクフィーがバリ島に定住し、ガムラン他を採集、録音して、自作に反映した例がある(コリン・マクフィー「熱帯の旅人」(河出書房新社)に詳しい。作品名は「タブー・タブハン」)。この著者も1960年代初頭に南アフリカのヴェンダ族に入って、音楽の採集と習得に努めた。その結果は浩瀚な書物になっているらしい。

 この本は1973年に書かれたもの。タイトルから「人間の音楽性」の起源や共通性の議論を期待したいところだが、人間はどのような音響を音楽とみなすか、それは社会や文化に依存している、社会や文化にさまざまな変異があるように人間がなにを音楽とみなすかにも社会と文化と同じくらいの違いがあるという主張をぐるぐるしている。民族音楽学や比較音楽学の基本理念の周辺をうろうろしていて、ヴェンダ族の音楽研究体験が加わるくらいという散漫なでき。
 まあ、西洋古典音楽=クラシック音楽を聴いたり、演奏したりしていると、どうしても西洋音楽の優位性を暗黙の前提にしたくなる。今のところ、体系が精密に記述されていて、資本主義といっしょに世界全体に押し付けられているので、そういう見方になってしまう。自分だけのことではなく、この国に西洋古典音楽が入ってきた後、それを受容しようとする人々はそういう錯誤を持つことがある。山根銀二「音楽美入門」(岩波新書)や諸井三郎「ベートーベン」(新潮文庫)などを今日読むのが相当に苦痛なのは、彼らが西洋古典音楽を優位にみなしていて、そうでない音楽を一段低いもの、発展途上にあるか発展しそこなったものとみなす考えがそこかしこにあるからだ。まあ、それはアドルノにもあるかもしれない。もうひとつは、音楽の「発展」を個人が自発的に行うという考えにあること。上記の人たちはベートーヴェンを特別な存在にみなすが、その理由は彼が身体疾患で苦しみまがら、普遍理念を音楽に表現したという物語で彼の生涯と作品をみるからだ。比較音楽学民族音楽学では、個人の創意もみるけど、同時に社会の変化や文化の趣味の変化なども重視する。そうするとベートーヴェンもウィーンのブルジョアの文化や周辺諸国の音楽の趣味や流行を取り入れているといえて、そちらの方が彼の作品を観賞する視点が多彩に、相対的になる。ニーチェが「ワーグナーの場合」で「15世紀以降の西洋音楽の歴史は誤りの道をたどった」という視点に似たものを持てるようになるだろう。
 ただ気になったのは、資本主義の旺盛さは、音楽を社会や文化の文脈から切り離したパッケージにしてしまうこと。端的には、どのような民族の音楽でも現地録音したものをレコードやCDなどにして商品にすると、消費者はどんな民族の音楽でもスピーカーから鳴らすことができる。流通している商品には「音楽」と書かれているので、どんな音楽であろうと消費者は社会と文化から切り離された音響をすべて音楽とみなすこと。事実、自分の部屋にはタンザニア、コロンビア、エジプト、ブルガリアグルジア、中国、バリ島、ハワイ島などの民族音楽のディスクがあり、それを音楽とみなして、鑑賞=消費しているわけだ。CDには民族の社会や文化のことが書かれているが、もちろん読まずに音響を流し続ける。そのような資本主義/文化産業の社会において、音楽が社会と文化に依存的な活動というのも難しい。ここらへんはどうなのかな。


コリン・マクフィー「熱帯の旅人」も紹介。

 「タブー・タブハン」の演奏はこれなど。
www.youtube.com


 ハムザ・エル=ディーン「ナイルのうた」