odd_hatchの読書ノート

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ガブリエル・ガルシア=マルケス「悪い時」(新潮社) 住民たちの愚かしいてんやわんわの出来事の背後では恐ろしいことが起きている。

 中南米の高温多湿な地方都市。そこに住む人たちの日常のてんやわんやがうだうだとつづられている。暑い、湿っぽい、不潔、人口過多、貧しい、食い物はすぐ悪くなり、ぬるいビールか地元の蒸留酒を飲むか、そんな発展から取り残されたカリブ海沿岸の衰退しつつある町のおよそ3週間のできごと。人々の日常茶飯事と中身のない会話が点描的に語られる。表層だけ見ていると、まあ、つまんない。
 ところどころに作家の別の作品との関係を示唆する文言がある。この街は「マコンド@百年の孤独」の町に行く途中であるとか、モンティエール未亡人(この街のほぼ唯一の資産家)の住んでいる屋敷はママ・グランデが死んだ家であるとか(「ママ・グランデの葬儀」)。あるいは、この町の町長は歯痛に悩んでいるがしかし歯医者に行かないとか(短編「最近のある日」)、遺産を処分しようとするモンティエール未亡人のヨーロッパに移住した娘や息子は帰ってこないとか(短編「モンティエルの未亡人」)。ドジで間抜けで底抜けに善人であるが何の役にも立てないアンヘル神父はたぶん名前を変えてほかの短編にも出ていたような気がするとか。まあ、初期短編を集大成して、次の「百年の孤独」につながる道筋を開いたものとみなすことになる。

 しかし、その読み取りでは不十分であって、住民たちの愚かしいてんやわんわの出来事の背後では恐ろしいことが起きている。まず、やまない雨(50日以上降り続いている)、それは住民のストレスを増やし、鬱屈は爆発寸前。そこに中傷ビラが夜ごとに家に貼られる。その家の住民は不倫の子だとか、人殺しだとか、不正で金を儲けたとか。それは人々が真実であると知っていて、口にしてこなかったこと。それが明るみにされることによって、イライラが増す。中傷ビラに怒った青年は楽士を射殺する。悪臭や川の氾濫が起き、町長は夜間外出禁止令を出し、町の人々を招集して警察権限を与え、中傷ビラを貼る実行者をとらえようとする。数日後の夜、招集兵による警備隊とビラ貼りのグループで撃ち合いが起こり、ある青年が逮捕される。彼は警察の留置場で死亡(事故死か自然死のように書かれるが、数日間の拷問があった末のことだ)。逮捕者の家族を呼んで、逃亡したあと死んだことにしろと強要する。「事件」はこのようにうやむやにされ、みかけの平穏が帰ってくる。
 歯痛に悩む町長、彼は「中尉」と呼ばれる中年男性。経歴から類推されることは、「現在」の十年ほど前に、軍事クーデターがあり、民主政権が打倒された。その時、市民は民主政権派と軍事派に二分して、たぶん内戦のような闘争があったらしい。敗北した民主側はほとんど町をでていったが、歯医者や床屋のような少数の人々は町に残っていた。彼らは町長他の軍事政権側に迫害されていて、その確執が表層以外であったのだ。だから町長は歯医者に行こうとしない(チェスタトンの短編ではないが、目を閉じ口を開けているときに殺されるかもしれないとか、むごい治療をするとかの不安や恐怖があったのだろう。実際、進行した虫歯を抜歯する際、麻酔なしで施療した)。警備隊に召集したのは、町長が便宜を図っている連中ばかり。
 これはコロンビアほかの中南米諸国の現実であったはず。町長=中尉のような暴力組織の親玉が独裁政治を行っていたのだ。だから、「戒厳令下チリ潜入記」のチリの様子はこの小説にそのまま重なるだろう。
 なので、この小説では(でも)、町を独裁する町長=中尉の孤独を読み取ることになる。中身は空っぽで、猜疑心が強く、強気でありながら、怯えていて、自分の手を汚さずに暴力をふるう。そういう独裁者を人々は民主的にいさめようとする(アンヘル神父やアルカディオ判事、あるいは床屋や歯医者など)ものの失敗し、黒人のカルミチャールや逮捕されたペペ・アマドールには不当拘留や拷問を実施し、町の創設者アイス家や資産家モンティエール家を保護し、サーカスの予言師・占い師のカサンドラの出まかせに耳を傾ける。こういう独裁者の滑稽で愚かしい姿が表層の裏側を読むことによって、浮かび上がるような仕掛け。そこまで周到に書かないと、禁書や焚書にあい、作家の逮捕もありうるような状況が背後にあったのだろう。
 そのような読みをするのは、この町の独裁を暗示するイメージがたくさんあるので。アンヘル神父の賄をするトゥリニダーが教会のネズミ取りに熱中しているとか、町にやってきたサーカス(通常、治外法権のメタファー)は夜間外出禁止令のために興業ができなくなるとか、川の氾濫と洪水で悪臭が町に漂っているとか、町には誰も入って来ようとせず、脱出するものばかりとか。このあたりは読者が注意深く読み取らないといけない。ストーリーを追うだけでは見えてこないので、メモを取りながらがよいだろう。
 ではそのような独裁を廃し民主制を打ち立てる方法は何か。この小説では暗示すらない。メタフォリカルな揚期のイメージすらない。そうするには、リアルなやり方では書きようがなく、「マジック・リアリズム」というイメージの展開と文体の発明によることになり、行く末は「百年の孤独」「族長の秋」になるのだろう。


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