重藤文夫(シゲトウフミオ:1903−1982)は、放射線医師であることと、原爆病院の初代院長であることくらいしか知られていない。
重藤 文夫(シゲトウ フミオ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
まず、この人の経歴がすさまじい。広島近くの村で生まれ、医師になり上司の命令でレントゲン技術を取得し、放射線科を設立。重要なのは、1945年8月6日、通勤途中において原爆に遭遇した。爆心地から1.7kmの近距離で被爆した。すでに当日の午後にはこれが原子爆弾であることを確信し、被災者の治療を開始する。すぐに資材や薬剤が枯渇するも、県庁や軍と交渉し獲得する(第2章が重藤の体験談。これは井伏鱒二「黒い雨」と同じような人間的な悲惨と希望の話。できるだけ多くの人に読まれてほしい内容)。以来、被爆者の治療と原爆症の研究を継続する。1948年広島の赤十字病院の院長となり、1956年原爆病院の設立と同時に院長となる。日曜以外は毎日治療にあたり、国内外からの見学や相談に応じ(ときに政治勢力やバカな個人のいいがかりにも対応し)、被爆者救済のロビイング活動をし、病院や身寄りのない被爆者の老人ホームの設立や運営に携わり・・・。まことに一人の人間として行うにはあまりに巨大なことをやってのけた。この対話録でも、過去の苦労や心痛を大げさにさわぎたてず、おうようである、まことに大人(たいじん)の人格を発揮している。
対話が行われたのは1970-71年であるが、被爆後25年を経過して、高度経済成長のさなかというのに、被爆者援護はお寒い限りだった。被爆を爆心地からの距離で決めて被爆者の範囲を狭くし、補助を出す症状を限定し、2世を被曝者と認めず、朝鮮人などこの国の国籍を持たない人を排除していた。政府や学者も被爆の症状を狭くしようとし、新たな発見を援助の対象とすることに否定的だった(このころ被爆者2世に白血病が多発していた)。それに対し、重藤は
「原爆障害は、傷痍軍人と変わらないんではないか、国家の制作によって犠牲になったんだから、国家が責任を負うという考え方が必要(P108)」
「おそらく多くの人たちは、原爆被災の影響がそう長く続くとは想定していなかったし、おさまるものと考えていた。しかしながら私たち医学者は、最初から多くの可能性を予想し、被爆者医療をすすめていかねばならなかった。恐ろしい可能性も存在した」
「私は、親が被曝している場合…白血病が多いとか少ないとかの因果関係を論ずるよりも先に、親が原爆を受けておられる方が白血病になったら、それはもう学問以前に国家が治療費その他いっさいの負担をするという達観した行政処置を取るべきではないか、と思っているんです」
と主張する。それが原爆病院の運営の方針であり、実行されたことであった。
被爆者とその家族が社会と国家から見捨てられ、差別のさなかにあって苦しみ悲しんでいるときに、彼らの側に立って活動する人間がいたこと(しかも自らも被爆していながら)は、大きな感銘になり、そこに希望をみいだしたい。
さらに国家が原水爆を持つことにも「原爆の威力を増すことは人間の愚かさだけが拡大されること」「原爆を持とうとする人は、自分だけが生き延びることができるとか自国だけが被害が及ばないと考えているようだがそれは誤り」という。直接原水爆禁止運動に携わることはなかったが、すべての国から原水爆を廃絶することを主張していた(当時は社会主義国家の核保有を認める論調もあった)。
この人はみずから筆を執ることはなかったので、たぶん唯一の文章がこの対話録となる。聞き手は1963年に広島をレポートするときに重藤と会った作家の大江健三郎。そのときからの交友は「ヒロシマノート」に詳しい。こちらの新書は今も読まれているが、こちらの対話録は絶版品切れが続いている。21世紀に、被爆体験の継承が難しいといわれる。なるほど70年経って体験者は鬼籍に入られておられるが、戦後にさまざまな記録が残されよい本が出版されてきた。それを読むことは重要であるだろう。