鳥取県の山間部にある紅緑町。ふるくから製鉄をするたたら場があったが、恐らく20世紀初頭に赤朽葉家がドイツから製鉄プラントを輸入して大きな事業にすることに成功した。町の高台に巨大な屋敷をつくり、一族が住まっている。その下には工場の従業員家族が住み、さらに下に商業地があり、海沿いには漁業者がいる。敗戦後に製鉄は重要基幹産業になり大いに発展したが、1970年代になると公害による住民の突き上げと、高コスト化によって、成長は鈍る。そのうえロボット化、コンピュータ制御は熟練工の仕事をなくしていく。加えて人口の流動化は激しくなり、人びとは都会に流れていった。バブルがはじけると、地方都市は衰微する。
そのような地場産業の栄枯盛衰を事業主である赤朽葉家からみる。たいていこのようなビジネス史は男からみるものであるが、本書では経営に携わらない女の側から見る。経営から排除されているので、一族を揺るがすような大きな出来事(たとえば労働争議、事業の縮小と多角化など)は遠景に退き、屋敷の中で起きていることに描写が費やされる。そのために、製鉄所の大事件よりも、婿候補の選抜、本宅の子と妾の子の葛藤と抗争、休暇中の不慮の事故、高校生の売春などの方が大事になる。というのも、一族の歴史をみる万葉は文盲で千里眼、毛毬は不良の暴れ者でレディース(女性だけの暴走族)で売れっ子漫画家。家族や社会からはみ出ている。そのために、経営や家族の権力を持っていない。決定権もない。封建制と父権主義が数百年も続いた日本だからこその状況だろう。
これが中南米の一族と異なるところ。あとがきでは、女三代の一族史をガルシア=マルケス「百年の孤独」、アジェンデ「精霊たちの家」になぞらえている。「百年の孤独」のブエンディーア家や「精霊たちの家」のトゥルエバ一族では、女族長が男をコントロールする力をもっていたのだ。それがない「赤朽葉家の伝説」に似ているのはトーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」のほうだ。「ブッデンブローグ家の人々」の主人公は家に出たり入ったりのアントーニエ(トーニ)だった。彼女の翻弄される生き方は鳥取の成金の女性たちに近い(それに中南米の一族の男たちは家を飛び出して各地を放浪する暮らしをしていたのだし)。
章立ては
第1部 最後の神話の時代(1953年~1975年) 赤朽葉万葉
第2部 巨と富の時代(1979年~1998年) 赤朽葉毛毬
第3部 殺人者(2000年~未来) 赤朽葉瞳子
となる。万葉は「辺境の人」に置き去られた子。彼女が貧しい家で育てられているとき、赤朽葉の家内を仕切るタツによって嫁入りすることになる。以後の物語はリンクを参照。第2部の毛毬のエピソードが破天荒。1980年代は好況期で就職しやすかった時代だが、一方では荒れた学校と暴走族がいた。地方の退屈な若者たちはスピードとスリルとセックスに熱中し、「青春」を生き急ぐ。これは歴史の正史には書かれない情報。それが毛毬という大女の一代記によって約20年間の世紀末を浮かび上がらせた。
最後には孫が万葉の最期の言葉の謎を解く。「人を殺してしまった」を残した老婆はいったい誰を殺したのか。半世紀の間に10人を超えるほどの死者を出しているこの一族のうちだれのことを言っているのか。嫁入りしてからほとんど家の外に出ていないし、街から離れたこともない女性はどのようにそうしたのか。謎ときは冒頭のエピソードにつながり、とても深い述懐を読者にもたらす。謎ときでわかった女性の愛というのはなるほど「伝説」と「神話」の時代にふさわしい。(とはいえ、ブッデンブローグ家とおなじく、赤朽葉家も三代で没落するようだ。巨大な屋敷も21世紀は廃墟になる予感があり、決して読後に明るい気分になれるわけではない。まるで日本の栄枯盛衰をみるよう。)
女性が時代を見直したことで、LGBT、レディース、女性漫画家、高校生の売春、フィリピン人労働者などが社会を変えていることがみえた。これは男の作家や記録者が見過ごしてしまう問題。毛毬や万葉、瞳子らが抱える閉塞感も男には見えないことだ。女性視点でみる20世紀史としても重要だ。
しまった。一族の歴史が村の歴史と交差しあい、国家との関係を露わにするこの国の重要な小説を忘れていた。
2016/01/15 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-1
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