odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

イタロ・カルヴィーノ「むずかしい愛」(岩波文庫)

 解説を読んでも発刊の経緯はよくわからない。1958年初出の似たようなテーマを集めた短編集。

ある兵士の冒険 ・・・ 汽車に乗っている兵士が豊満な若い女性に愛撫を試みる。言葉のないコミュニケーションを言っているのかもしれないが、行為は痴漢そのものなので論評なし(逆に言うと、当時は痴漢はなかったのか?)

ある悪党の冒険 ・・・ 深夜、泥棒が追いかけられてなじみの娼婦の家に行く。そこには亭主がいて、むりやり起こしてベッドをあけてもらったが、そこに追いかけてきた私服刑事が変わったことはないかい、なければ俺をそこで眠らせてくれといいだす。夜明けまでまだ数時間ある・・・。乾いた笑いのでる犯罪小説(ブラウンやアイリッシュシムノンだともうひとひねりしそう)。

ある海水浴客の冒険 ・・・ 海水浴中にセパレーツの水着が取れてしまった。海から上がれないし、気づいた男はにやにや笑いを浮かべるだけで助けてくれない。そこに地元漁師の老人と子供が船を近づけてきた・・・。女性用のセパレーツの水着は戦前からあったが、ポピュラーになるのは1960年代後半から。という事実からわかるのは、この女性はハイソな階層の人で、ワーカークラスとは無縁に暮らしていること。

ある会社員の冒険 ・・・ とある女性とのアバンチュールの一夜を過ごし、そのまま会社に出勤する。前夜の余韻が残り、想念はしばしば過去に引き戻される。しかし甘美な思いは疲労と眠気で一掃されて・・・。わかるわあ。

ある写真家の冒険 ・・・ カメラに凝った男が写真を撮ることにこだわる。女友達をモデルに頼むが、カメラ越しにしゃべるだけなので、怒って絶交。取り続けた写真の写真を撮り、それを廃棄する写真を撮り・・・。創造と破棄の繰り返しは無為であるのか。それともアートであるのか(そのようなことがあることを知っている人は誰もいない)。

「写された現実は即座に、時の翼にのって駆けぬけた歓喜に染まり、郷愁をまとう。たとえそれが一昨日の写真でも、追悼のにおいがする(P80)」

 バルト「明るい部屋」の指摘と同じ。

ある旅行者の冒険 ・・・ ある会社員。ローマまでの夜行列車で一等のコンパートメント席を買い、ルーティンをして素晴らしい一夜にしようとする。でも深夜便には、旅行客が入ってきて・・・。何も起こらないが、孤独でいられたのはよかったという思い。

ある読者の冒険 ・・・ 避暑に来た読書好き、海辺で厳選してきた本を読んでいる。隣にセパレートの水着美女がいて、いっしょに読もうと誘われ、さらにはタオルを取ってと言われたら裸になっていて、でも読書好きはどこまで本を読んだかが気になって気になって・・・。これもわかるわあ。

ある近視男の冒険 ・・・ 近視男が眼鏡を作って、何もかもよく見るものだから気分が良くなって、故郷に行ってみることにした。でもメガネのフレームのために、誰も彼だと気づかない・・・。エドガー・A・ポー「眼鏡」1844と比較してみよう。

odd-hatch.hatenablog.jp

ある妻の冒険 ・・・ 上流階級の奥さんが若い不倫相手に会おうとしたら部屋にいない。夜明け前の田舎町で時間をつぶせるのはカフェだけ。地元の工員や爺さんたちに囲まれる。階層の異なるところに投げ込まれてとまどう。ルイ・マル死刑台のエレベーター」にでてくるジャンヌ・モローのイタリア版か。

ある夫婦の冒険 ・・・ 共働きの夫婦は働いている時間が正反対。妻が起きるときは亭主が寝るときで、妻が帰宅すると夫は仕事に出ていく。口喧嘩をして、相手のぬくもりが残るベッドに伏す。

ある詩人の冒険 ・・・ 美人と一緒に詩人がデート。美人は一生懸命誘惑するが、詩人は頭の中に沸いてあふれる言葉に気もそぞろ。でも作者?のナラティブで詩人のことばもどこかにいってしまう。

あるスキーヤーの冒険 ・・・ スキーがへたくそな若者たち、とてもうまい女の子に惹かれる。でもスキーでは追いつけない。たまたまリフトで一緒になった。ぎこちない会話。山頂についたら女の子はさっさと行ってしまう。

 

 19世紀はロマンスの文学であって、社会のあらゆる階層のキャラが大恋愛をしたのだ。でも、20世紀になって、大文字の大恋愛はできなくなってしまった。書くことも困難なのだ。そこでカルヴィーノは大恋愛の復活をもくろむのではなく、恋愛が難しい時代の恋愛の諸相をスケッチする。おもには男性視点。
 個々の短編における愛の困難さは別に研究や評論があるからここではそういう言及はしない。気の付くのは、20世紀半ばのイタリアが大衆社会になっていて、個人がアトム化・孤立化していること。ほとんどの語り手は独身とみえ、都市で一人暮らしをしているようだ。アパートの一室にこもっていて、隣と関係をもっていないし、町の行事や政治に関わりを持たない。友人といえば職場の同僚か学生時代の知り合いくらい。なので、コミュニケートの方法を知らない。他人が自分のテリトリーに入ってくるのも困る(電車のコンパートメントや読書の場など)。そこに気をひかれるような美女がいたり、誘惑のサインを送ってきても、気付かなかったり、無視したり。気の利く友人もいないから、サインを教えてくれるわけでもない。なのでその次の展開に進むことができない。大衆社会における恋愛の困難さはコミュニケーションの機会と技術の不足。
(語り手のキャラは比較的裕福な人たちで都会暮らし。なので、1958年にはまだイタリアの田舎に残っている贈与社会や共同体のコミュニケーションに参加するのは苦手。でも彼らの「フランク」さにはあこがれを感じてもいる。こういう複雑な気分が大衆社会の孤立化アトム化した人たちにあるのだね。でも夫婦や恋人などの関係を持っている人は、親密なコミュニケーションを作ることができない。)
(孤立化アトム化した都会の大衆は、「マルコヴァルドさんの四季」にもっと具体的に登場する。)

odd-hatch.hatenablog.jp


 孤立化アトム化した人たちは自分の価値を承認されることが少ないので、自分の価値を低くみるし、他人の価値も同じように低いものとしてしまう。典型的なのは最初の物語の兵士。いつ死んでもいいという気分をもっていると、他人もそうであると思ってしまって、簡単に危害してしまう。これも大衆病理のひとつ。
 あと作者がみつける愛が難しい人の中には、自閉的な人が多い。彼らは世界を自分ひとりで閉じ込めてしまい、心の空虚を埋めるために「もの」に対して愛着をもつ。ときには過剰なほどに。愛着をもった「もの」はそれ自体が世界の価値を決めるから、彼らは「もの」を通してしか他人にアクセスできない。当然それは挫折する。ここではカメラ、メガネ、本などがフェティシズムの対象。
(これは俺の行動性向に近いので、さまりーに「わかるわあ」と書いてしまった。)

 感想はこれくらい。では文庫の解説を読んで、どういうことが描いてあるか見てみよう。

 

 読んだ。コミュニケーションの不在は指摘しても、その理由である大衆社会や孤立化アトム化した個人という指摘はなし。1995年の解説だから仕方ないか(かわりに、物語の不可能性がどうのこうのという話。)