odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

間宮芳生「現代音楽の冒険」(岩波新書) 昭和一桁生まれの音楽家は西洋へのあこがれはあっても、東洋のコンプレックスはなかった。

 1929年生まれの作曲家。この本は1990年に岩波新書ででた。おおよそ自身の半生の振り返りと、時代ごとの音楽状況のまとめ、それに触発された自身の思考と作品を述べる。
 親が中学校の音楽教師で、子供のころから自発的にピアノを弾き、作曲を行い、SPを聞いていたという早熟ぶり(しかし独学)。芥川也寸志や團伊久磨などが似たような早熟ぶりだったなあ。
 自分はこの人の音楽をほとんど聞いたことがありません。なので、音楽作品への言及はできないです。

プロローグ ・・・ 教科書や新聞の音読、物売りの掛け声、いたこの口寄せ。この国の日常的な行為の名にある音楽的な「こと」。

現代音楽への出発 ・・・ 日本放送協会が1930年代から日本民謡大観という民謡の採集(録音と採譜)を行った。あしかけ40年かかった作業の一部が出版、公開されたので、1955年ころから著者は民謡の研究を行う。ハヤシコトバと旋律の構造性について。参考にしたのは当時の流行のトータル・セリーとバルトークの民謡研究(これの概要は伊東信宏「バルトーク」(中公新書)が参考になる)。民謡旋律の構造分析はほぼ同時期に柴田南雄も行っていたとのこと。著者はハヤシコトバに魅せられ、「合唱のためのコンポジション」連作に結実する。

映画、詩、そして「弦楽四重奏」 ・・・ 1950年代に活動を開始した作曲家の常として映画音楽の作品がある。著者は劇映画ではなく(伊福部や芥川とは違って)、記録映画に参加。映像から音楽のインスピレーションを感じることがしばしば。黒田善男の詩からの影響。1960年代の「前衛」音楽家によるさまざま奏法開発の試みの紹介。

二人のジョン ・・・ 二人のジョンは、1960年代の音楽状況を先導したケージとコルトレーン。共通するのは、非西洋と即興性かな。そこからインド、アフリカほかの民俗音楽へのと話が広がる。

足の裏の音楽 ・・・ 「なぜ黒人はかかとでリズムをとるのか」という記述があるように、音楽の肉体性や日常性を回復しようという考え。西洋の古典音楽は脾臓からうえの半身しか使っていないよ、そうでない全身を使う音楽のほうが「生き生き」しているよ、という主張。実作として「オーケストラのための2つのタブロー・’65」がある。

西のリズム、東のリズム ・・・ 西(洋)のリズムは円運動とみなせて、かつ重力の影響を受けているとする。すると、リズムのなかに加速と減速が交互にあらわれ、フレーズのあたまは最大加速時に行われるのが西洋リズムでは「自然」。要はフレーズが変わるときに加速して拍が少しはやくなるということ、らしい。自分はピアソラの「つんのめったリズム」でなんとなくの見当はつく。それは戦前のピアニストには顕著だったが、1970年代の著名ピアニストになると減速された状態でフレーズを区切る「ゆっくりまたぎ」になる。アシュケナージとかエッシェンバッハとか。そうでないのはアルゲリッチ。一方、東(のうちの日本)では、リズムは上下運動で、フレーズをまたぐのは上に来た時の減速されたときになるのが「自然」。

音楽の持つ力 ・・・ 1970年代にフィンランドサーミ族の音楽ヨーイクとの衝撃的な出会い。旋律が意味をもっているような言葉にとよらない音楽の可能性に気付く。あと、ヨーイクは呪術的な性格をもっていて(勝手に歌ってはならないとか、場所を選ぶとか、トランス状態に人を引き入れるとか)、その身体性も重要だと考える。

都市文化と基層文化 ・・・ 言いたいことが整理されないまま吐き出された章。西洋と東洋の音楽をみるときに、それぞれがたがいに文化的偏見をもっていること。「日本」音楽に求められるのがエキゾティズムであるところとか。国内で見れば、その関係は都市の文化(洗練され商業化された文化)と基層文化(フォークロアな生活の文化)にみられる。西洋や都市の文化が肉体性やトポス性を失っていることを批判。


 面白いのは、現代音楽を語りながらあえて西洋の現代音楽の作曲家のことをほとんど書かないこと。同時代にいるということで、バルトークシェーンベルク、ストラビンスキー、ケージ、ペンデレツキーくらいの名は出る。19世紀以前の作曲家はほぼ無視。それよりも、ジャズと世界各地の民族音楽のことがたくさんでてくる。これはこの本の主題である音楽の身体性の回復からは当然の流れ。初読の時は民族音楽のことをよく知らなかったが、CDを集めたり、小泉文夫の本を読んだりしたので、今回はすっきりと頭にはいった。
  ジョン・ブラッキング「人間の音楽性」(岩波現代選書)だと、西洋の人が非西洋と出会い彼らの音楽を理解することの困難と、それでも西洋音楽を捨てきれない立場の困難さが見えたものだ。でも、非西洋の著者が非西洋の音楽を聴いたり体験したりするとき、そういう困難さはないように見える。キーワードは音楽の身体性と呪術性なのだろうな。そのあたりに共感すると、理解の妨げにはならないし、受容は可能だということになる。この楽観的なところは、ブラッキングの西洋人と著者の東洋人の差異で片づけてもいいが、それだけでは足りない。たとえば、少し年上の吉田秀和とか山根銀二、諸井三郎などには非西洋の民族音楽への共感というモチーフはないから。次の世代(戦後になって活動を開始)になってから、非西洋への共感と理解への意識が生まれたのではないか、そんな気がする。著者と同世代の小澤征爾武満徹にも、西洋へのあこがれはあっても、東洋のコンプレックスはなかったなあ、と。でかすぎる問題だからここまで。
 もう一つの面白さは、この本の構成が論理的な建築的な骨格を持っていないこと。上にまとめたように著者の過ごした時間の流れがあって、そこに著者の考えが語られる。それは論理の展開を丁寧に追うことはしていなくて、連想に基づいて奔放に飛んでいる。「二人のジョン」の章だと、ケージの紹介、そこから東洋への関心、インド音楽ラヴィ・シャンカール、彼と共演したコルトレーン、ジャズ、アフリカ、灼熱する熱狂の音楽、民俗文化、自身のハヤシコトバへの注目。こんな具合。西洋のソナタみたいな形式ではなくて、即興と連想飛躍で書かれた文章。著者の主張を読み取るのは難しくなるかもしれないが、読み物としてはよいでき。たぶん計算づくの書き方だと思うが、これは著者の音楽作品にも反映しているのかなあ。

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