odd_hatchの読書ノート

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岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書)

 音楽を聴くとその時の感情の動きを誰かに話したくなる。でも、同じ音楽を聴く場にいても、必ずしも同じ感情を共有できるわけではない。同じ音楽を録音で聴いても、同じ感情が再現するわけではない。それでも、音楽を聴いた時の感情や知的関心などは語りたい。そのやり方を、とくにそれについて語ることがとても重要な西洋クラシック音楽をサンプルにして考えてみる。以上が本書のテーマ。


 音楽を語るというのはそれほど面倒なことではなくて、よくやっていることなのだ。歌ったり楽器を演奏したりするときにアドバイスするとか、ポップ音楽や民謡を聞いて歌い手を品評するとか。そこではおもに身体の動きや比喩で語る。そうすることで、音楽の中の身体性や共同体内の共感などを伝えることができる。よく知っている(とは何か)を語るときには困難は生じにくい。でも、知らない音楽や「芸術」音楽を聴いたときに、心的な印象や感情の動き、作品から想起したイメージなどを伝えることは途端に難しくなる。そういう「語る」ことが重要な音楽になると、音楽の背景にある文化や受容する社会の好みや語るための語彙を引き出す「内なる図書館」が貧しくなる。語ろうにも、ことばが口ごもってしまうのだ。
 さらに、西洋古典音楽では、聴く方法や語る方法があるのだが、それを使うのには、困難がともなう。すなわち、18世紀以前(古典派、バロック以前)では音楽には社会的規範(コード)があって、暗黙の前提になっている。特定の楽器や音形、調性には意味があるとか、感情と表現のつながりがあるとか、構造の方を理解する必要があるとか。こういう伝統やコードは19世紀以降の音楽産業で失われている。また19世紀のロマン派は音楽を哲学的表現、擬似宗教体験であるとして、音楽を体験したときの「沈黙」を聖化して、音楽を語ることが不可能であることを言葉で力説する。あるいは宗教的な言葉で韜晦する(「精神性」「内面」「深さ」「神」「宗教」「宇宙」など)。日本では西洋音楽を語る人たちは19世紀ロマン主義、とくにドイツロマン派の影響が強い(小林秀雄丸山真男五味康祐などが典型。吉田秀和も影響圏内の人)。それが学校教育なや音楽産業によって商品化された音楽でも強化されたのだった(2018年でも、素人の音楽評論ブログやSNSにはこの影響下の文章がたくさんある)。この影響から抜けるのはなかなか困難。でも、ごく少数者が新しい語彙で音楽を語るようになっているので、参考にしてよい。そのときには観念的、形而上学的なことばよりも、身体感覚や詩的比喩を使うのがよいし、当の音楽が生まれた社会や受容の歴史を考慮してもよいだろう。
 西洋古典音楽は音楽の再生に特別熱心だった。楽譜、音楽学校、レコードなど。これらの技術と音楽の技法(わかりやすく、感動をうけやすい)で、世界中に広まった。その結果、西洋音楽では音楽をする(作ると演奏する)/聞く/語るが分業化された。「聞く」は「語る」とワンセットだったが、コンサートやレコードの増加で語ることが専門家に分業化されて、聞くは音楽の共同体から疎外されている。それも冒頭の音楽を語ることを難しくすることの原因。
 ざっとまとめた。「音楽の聴き方」というというといかめしいことを想像していたが、書かれていることはそれほど難しくはない。アドルノみたいに家庭や地域共同体での音楽を「する/聞く/語る」体験が重要ということで、アマチュアでもワルトシュタインが引けるくらいでないと(「不協和音」平凡社ライブラリ)、といわれるよりははるかに敷居が低い。それでも、西洋古典音楽を同時代で聴いていた時のマナーやコード、受容の歴史、社会的文化的文脈を知るというのはなかなか大変(いい加減な数字でいうと、音楽関係で50冊、歴史関係で100冊、映像資料を100時間以上をこなすくらいの鍛錬が必要か)。
(途中で、ドイツの音楽評論家パウル・ベッカーの説(1910年代の論文)が紹介される。音楽はそれ自体では成立しえず、形式(音楽を統御するルールとか演奏会などの運営とか)と「周囲世界」が必要とする。この周囲世界は「umbelt」で、びっくりぎょうてん。なんとユクスキュルの環世界のもとになった言葉(「生物から見た世界」1934年)。意味は異なるが重なるところが多い。たぶんumbeltはごく普通なことばで、この時代(1910-30年代)のドイツの流行語で、同じような意味合いを持って使われていたのではないか。)
 著者の議論は自分が30代のころにうすぼんやりと考えていたこととほとんど同じなので、とくに抵抗なく、するすると理解できた。唯一閉口したのは、ハンスリック「音楽美論」、ベッカー「西洋音楽史」など自分が「だめだこりゃ」と思った本を詳細に読んで、そこから「聴き方」を掬い上げているところ。よく読んだなあだし、今更こんな本をだし、俺の読みが甘かったか(しまった)だし。共感しにくかった。
岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書) 参照
 また、音楽の共同体的含意を経験するのに、素人でも楽器演奏のクラブやサークルにはいって手技としての楽器演奏を体験することを推奨する。なるほど、音楽には共同体の共通含意がある(ということを自分もバリ島のケチャ体験で考えた)。ただ、西洋のポップ音楽(とその類縁の古典音楽、さらにはグローバル資本主義)は共同体を破壊してしまったのだし、地縁や血縁でない共同体つくりで代替になるのかなあとも疑う(市民オケ内で派閥抗争や人間関係の不和などを聞くことが多いので)。これは自分が共同体に違和感をもつゆえのひがみか。あと、その共同体は互酬ではない、アソシエーションになりうるかもという期待も感じた(ただし、20世紀は音楽の非政治化イデオロギーも強いので、安易には期待しない)。