odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イーアン・ホースブルグ「ヤナーチェク」(泰流社) 60歳を過ぎてからの恋愛が爆発的な創作意欲になった稀有な大器晩成の作曲家

 ヤン・ヴェーニグ「プラハ音楽散歩」(晶文社)を読んだときに驚いたのは、チェコスロヴァキア(初出は1960年代)という国が3つの地方に分かれていて、それぞれ反目と友愛によってつながっているということ。すなわち、チェコモラヴィア・スロヴァキア。実際、1989年の東欧革命ののちチェコとスロヴァキアのふたつに分裂した。これはこの国に住む人の意識とは別のもの。

 この本は1982年初出なので、当時の慣例に従って「チェコスロヴァキア」を使うことにする。この細長い場所は、ドイツとオーストリアハンガリーに挟まれて、なかなか民族の独立のできなかった場所。だから15世紀のフスの反乱はこの地に住む人にとっては重要でプライドにつながる出来事(ルターやマルクス・エンゲルスらからすると「ダメ」になる)で、スメタナの連作曲「わが祖国」のタイトルはおもにこの出来事に由来。さらに、この場所からは音楽の大家がたくさん生まれたのだが、19世紀の独立まではこの地を捨て、異国の地で改名しなければならなかった。シュターミツ、ベンダ、チェルニー、ライハ(ライヒャ)など古典派音楽の大家にはこの地の出身者がたくさんいる(この種の古典派の音楽をCDで安く聞けるようになったのはうれしい)。
 で、19世紀の重要音楽家としてスメタナドヴォルザークがでたが、彼らはチェコの出身者。一方、その子の世代であるヤナーチェクモラヴィアの出身(1854-1927の生没年はマーラードビュッシーと同世代)。この出身地の違いは、どうもプライドのぶつかり合いと反目の原因になるらしい。ヤナーチェクスメタナを敬愛することは少なく、ドヴォルザークに批判的であったとあるが、それは彼の気性の激しさだけで説明できることではないだろう。
 本書のほとんどは、作品解説で、譜例までのっているものだから、音楽素人にはこれもまたなかなか難しい。「利口な女狐の物語」は新聞に連載されていた挿絵付物語だったとのことで、いくつか挿絵が収録されているのがうれしい。
 いくつか。
コダーイバルトークなどと同じく、この人もモラヴィアの田舎をまわって民族音楽を採譜していたのだった。しかもこの人は発話旋律もメモしていた(たとえば「おはよう」の発話を五線譜で記譜する)。ベートーヴェンワーグナーみたいに音楽は展開とか変奏するものという発想はこれらの作曲家にはなかったと見える。
伊東信宏「バルトーク」(中公新書)
音楽学校卒業後は、ずっと教員(3つを掛け持ち)と合唱団の指導に没頭していた。そのため50歳までほぼ作曲の時間がとれない。ひとつの学校をやめてようやく時間ができたので、9年かけてオペラを作曲。その「イエヌーファ」で成功したのが62歳。代表曲はそこから12年の間に書かれたという大器晩成の人。これほど成功が遅かった人はほかにいるかな(フランクにブルックナーくらいか?)
・作曲家の生涯はその作品ほどおもしろいものではない。近代になるほどその傾向が強くなる。その中でヤナーチェクが異彩を放つのは、24歳で結婚したが相手はなんと17歳。ドヴォルザークに結婚を報告にいったら、奥さんがあまりに若くて驚かれたとのこと。40歳のころには、奥さんとはすっかり敵対状態。ときに別居もしていたという。一人娘は21歳で病死。このように家庭には恵まれない。しかし、おそるべきは62歳になってから37歳年下の若い女性と熱烈な恋愛をしたこと。ヤナーチェクの出した恋文は600通が残る。彼女との恋愛が創作意欲の源泉になったとか。晩年の弦楽四重奏曲第2番は「ないしょの手紙」と題が付き、それはこの恋文とのこというのだから(のちのベルクの「抒情組曲」もそういう経緯を隠していたという)。
・「マクロプロス事件」はチャペックの原作。「死者の家から」はドストエフスキーの「死の家の記録」の自由な編集(さまざなエピソードを作曲者が並び替え、一部は自作のシーンを追加。この本には対照表が載っている)。「消えた男の日記」歌詞のドイツ語翻訳はマックス・ブロート(カフカの友人)。という具合に、文学者などとのかかわりが出てきて、文学好きにはおもしろい。
ヤナーチェクは死後しばらくはモラヴィアの田舎作曲家という扱い。再評価の動きになったのは、ラファエル・クーベリック(「イエヌーファ」の改訂版を作って上演)、サー・チャールズ・マッケラス(楽譜の校訂をしてサドラーズ・ウェールズ・オペラで上演)などの活躍によるもの。最晩年にヤナーチェクはイギリスに招かれたことがあり(たぶん唯一の国外旅行)、例外的にイギリスでは人気があったのだ。ドイツやアメリカでは初演以来ほぼ無視ないし冷淡な扱いが長く続いた。

 主要作品は9曲のオペラ、室内楽ピアノ曲、合唱曲であるとのよし。自分はあまりよいヤナーチェクの聞き手ではない。よく聞くのは真ん中の分野くらいで、オペラは「死者の家から」のみ、グラゴル・ミサと「消えた男の日記」を除く声楽・合唱曲はCDでみたことがない。おすすめはピアノ作品かな。東欧の印象派みたいな響きとリリカルなメロディが面白い。誰かの小説で管弦楽曲シンフォニエッタ」が有名になったが、ドイツ音楽を中心に聞いてきたという人には構成の緩さが感じられてつらいのではないかしら。むしろオペラを見たほうがよいかもしれない。
シンフォニエッタ
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歌劇「利口な女狐の物語
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