odd_hatchの読書ノート

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都筑道夫「七十五羽の烏」(光文社文庫)

 デュパンの昔から、探偵というとスノッブで人嫌いで高踏派で韜晦趣味があるという相場だった。そういう現実には存在しない「名探偵」がたくさんいたので、反動としてリアルな私立探偵や警察官が主人公になることがあった。第3の道を開いたのが、レックス・スタウトで外に出ない推理専門の探偵と行動派の捜査役に分業させる。前者は報告を聞かないと能力は発揮できず、後者は危急の際は自らの才覚で切り抜けられるが事件の全貌をつかむには難い。この二人が仲がいいのかわるいのか、さあ見かけからはよくわからないとなると、二人の掛け合いや捜査会議ががぜん面白いものになる。そういう系譜の探偵をこの国で想像したのが、「ものぐさ太郎」シリーズ。
(偉そうな系譜をかいてみたが、たとえばスタンドアップコメディのボケと突っ込みとか、喜劇映画のコンビのローレル&ハーディとかホープ&クロスビーとかと思い出せばよい。)

 父が莫大な資産もちであるので働くことに意義を感じない青年、物部太郎(ひとよんでものぐさ太郎)が、faaなるエージェントを経営する片岡直次郎(講談・歌舞伎の登場人物名だそうだが、もはや説明されないとわからない)に、売上は決して上がらないが閑にしているようにはみえない職業を斡旋してくれと相談に来た。なかなか難しい注文であるが、片岡直次郎はサイキック・ディテクティブになることを提案。初出時期にはユリー・ゲラーの超能力に、円盤発見やUMA捜索のTV番組が量産されていた時代。この国の人がようやく西洋オカルトに興味を持ち出した時期。そのときに、デバンキングをこととする探偵を選ばせるとはねえ。
 ここで明らかになるのは、ものぐさ太郎の個性はほぼ皆無。合理主義と論理と実証を旨とする理性が着物を着ているとみてよい。ただ、それは自分の生き方に限定されていて、他者に介入することを極端に嫌う。一方、片岡は理性よりも行動の人。機転がよく効いて、危機や混乱時には優れた対応をする(実際に、「危険冒険大犯罪」「吸血鬼飼育法」など片岡が主人公の小説がある)。拳銃なし、拳闘なしで対処するのでおのずと弁が立ち、人間心理の襞に入り込むさまざまなスキルの持ち主。顧みれば、このふたつの性向は著者の以前の小説ではひとつの人格に統合されていて、たとえば「なめくじに聞いてみろ」の桔梗信治や「暗殺教程(スパイキャッチャーJ3)」の吹雪俊介、「誘拐作戦」の赤西一郎太などにみられた。これをふたつのキャラクターに分裂させた。
 事件の推理は二人の会話、ときに警察の担当者が加わるくらい。太郎と片岡が情報を入手する順番とおりに読者も事件の情報を仕入れるので、タイムラグは働かない。そこで読者と作者の間のフェアネスが担保されている。そのうえ、彼らは事件の関係者に好悪を持ち込まない。事件の捜査を依頼してきたのは、国文学専攻の21歳の聡明な女性であるが、彼らは恋愛感情をもたない。片岡がプロに徹しているのと太郎のものぐさがあいまって、探偵が関与するメロドラマがない。ここらも、たとえばクリスティのヘイスティングはすぐに恋するし、カーの諸作では主人公とヒロインの恋のドラマが事件と同時進行することが多い。たいてい、この恋の行方は事件の推理を妨げるミスディレクションの役割になる。それをふくめないものぐさ太郎シリーズでは、ここでも読者と作者のフェアネスが担保されている(メロドラマなしは作者のもともとの意図)。
 ものぐさ太郎と片岡直次郎のコンビは、このあと「最長不倒距離」「朱漆の壁に血がしたたる」の3つの長編に登場して引退する。魅力的なコンビであると思うが、長続きしなかった。同時期に「なめくじ長屋」「退職刑事」「キリオン・スレイ」などの探偵がいたことが大きいのだろうし、パズラーとして目の込んだ緻密な作品をそうそうに作れるものではない(そのうえ1970年代はパズラーの需要があまりなかった。先生の着想は常に時代を一歩先んじていて、タイミングがあわない)。この二人のコンビは長編には向いていても、短編にはふさわしくなかった。うえにあげたスタウトのネロ・ウルフシリーズでも短編はほとんどない。あっても長い短編か中編くらいの分量がいる。太郎を主役にしたパズラーにするにも、片岡を主役にしたハードボイルドやアクションにするにも、二人を描くには30-50枚の分量は少ない。そんなところがこのコンビの活躍期間が短かった理由かな。