odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

レックス・スタウト「毒蛇」(ハヤカワ文庫)

 例によって九鬼紫郎「探偵小説百科」を引き合いにしてしまうのだが、このユニークな探偵のことはこの本で知っていた。しかし、そのころは翻訳がなかった(創元推理文庫の乱歩の選ぶ短編傑作集第4巻にあるだけ)。ようやく入手できたのは創刊されたばかりのハヤカワ文庫(ミステリ)が出版してからで、初期のものを面白がって読んだ。それからまた忘れられて、今はあんまり出ていないのではないかな。この「毒蛇」はネロ・ウルフものの最初の作(1934年)で、ハワード・ヘイクラフトや訳者によると、著者の最高傑作とのこと。

 ネロ・ウルフ初登場とあって、主人公たちのファミリー(ウルフにアーチー・グッドウィン、専任コックにランの栽培係、雇いの私立探偵たち)をじっくりと描写している。そのため前半の50ページはテンポが(後年作に比べると)のろい。シリーズものになると、なじみの人たちを紹介する手間が省けるからね、その分ストーリーを進めることに徹することができるわけだ。美食家で皮肉屋でモラリッシュなウルフ、単細胞的ではあるがユーモアがあり行動的なグッドウィン、職務に忠実で無口で地下室に住むコックのフリッツ、レッドネック風の風貌と喋り方ではあるが職務では抜群の能力と行動力を発揮する雇いの私立探偵たち、と魅力的な人物を造形していて、彼らに長時間付き合うことは楽しいことだ。通いの園芸家シオドアはほとんど登場しないので、どんな人物かはよくわからない。名前からするとナチス政権誕生前に移住したのかな。こういう男だけの生活のユートピア。まあ、大学寮の生活をもっと洗練させ、高雅にしたもの、というとイメージがわくかな。
 7年前から共同生活を送っているウルフとグッドウィン、不況のあおりをくらってかつてのような華々しい生活はできない。そこにかつて雇用していた私立探偵から行方不明になったイタリア人職人を探してくれと頼まれる。新聞広告につられてなにかの細工仕事のあとに、刺殺されたことがわかる。そして、彼の失踪とあわせてホランド大学の総長がゴルフのプレイ中に亡くなった。彼はウッドで球をひっぱたいたあとに(すまんねえ、ゴルフをやらないもので言葉を知らないんだ)、死んでしまった。行方知れずのウッドに細工があったことを見抜いたのはウルフの慧眼。のちに総長の未亡人が5万ドルの懸賞金を出したのを知り、ウルフはそこに目をつける。
 全体の骨組みは本格探偵小説、見かけはハードボイルド、心理描写は的確。ときにはコメディをみせてくれるし、食と蘭の薀蓄も語られる。こんなミステリはなかなかみあたらないなあ。創元推理文庫で刊行されていたら、ネロ・ウルフものはどの分類に入れていただろう?本格でもあるようで、ハードボイルドであるようで、しかしそのどちらでもないような。なるほど、この小説ではふたつの家の積年の恨みつらみというのが顕わになる。そのあたりの描写を詳しくしていくと、ロス・マクドナルドの世界に近づいてしまうのだが、ウルフもアーチーも生活や怨念などに踏み込むことはしない。ここはドライで、ビジネスライク。ハードボイルド的な足でかせぐ捜査をしているのだが、家庭とか社会とかの不正やうそが見えてくるわけでもない。ようするに、その後のきびきびした諸作品と比べると、魅力は薄いのではないかな、という印象なのだ。描写は丁寧ではあるのだがね。
 面白かったのは、謎解きの直前、ウルフ一家総出で犯人逮捕のための芝居を打つ。ここがウルフもの特長で(とはいえそれ程例はないのだが)、コンゲームが犯人に仕掛けられる。誰に仕掛けられるのか、なぜそのような手を打つのか、ここら辺のサスペンスが終盤を盛り上げる一つの手法。

 アメリカの私立探偵というと、独身で個人事務所で貧乏で警察と小競り合いをしているにもかかわらずモラリッシュで文学づいていて・・・という具合の類型があるのだが、このウルフについてはまったく逆の設定になっているのが面白い。もちろんウルフ自身は独身であるとしても、料理シェフがいて、蘭の飼育担当者がいて、世話女房的で行動的な若い相棒がいる。ネロ・ウルフの巨大な体躯、舌鋒するどい毒舌というのはアメリカの父権を意味しているのだろうし、その元でかいがいしく働く陽気なアーチーというのはアメリカのセルフイメージであるにちがいない。そういう連中が集まっての集団生活、しかも一般大衆からするとハイブロウで豪奢な生活。そのような疑似家族というのは、アメリカの大衆の気分と一致しているのだし、ちょっと上の階級の生活は憧れであり、現実を舞台にしたおとぎ話としてふさわしい。ホームズを抜いて全米でもっとも知られている探偵の一人であるというのもうなずける。(翻ってこの国では・・・うーん、乱歩御大の通俗長編の明智探偵事務所と、筒井康隆の「富豪刑事」くらい?)