odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

都筑道夫「七十五羽の烏」(角川文庫)

 「タロー・モノノベ、サイキック・ディテクティヴ」に最初に依頼してきたのは、無為の日々をすごすこと一月半たってのこと。茨城の叔父が「滝夜叉姫」の怨霊に殺されるかも、心配なので調査してという若い女によるもの。茨城は平将門の旗揚げの土地で、古い伝承が残っているのだ。一回目はていよく説得したが、二回目には殺されたと報告された。負い目を感じて太郎と片岡は腰をあげる。
 このあとは精緻なパズルのように、些細に見えて重要な謎と、手がかりに見えない遺留品がでてくる。あんまり数が多いので、メモを取らないときっと忘れてしまうよ。そこで、横着したがる人のために、俺のメモを公開しておこう。

 まず、この家・田原家は庄屋の系譜にあるような巨大な屋敷。当村の相談、決め事をこの一族で合議するとともに、古い民俗品、家財道具、骨董が整理されていないまま大量に保管され、女中、番頭など血縁にない人も屋敷に寝起き。とはいえ、昭和40年代の高度経済成長はこの屋敷までは及ばず、しきたりの面倒さや広すぎる屋敷を残された家族は持て余している。実際、当主は兄で、弟は実業家として東京暮らしをしているほど。
 最初の被害者は、田原家の当主・源次郎。首を絞められていた。奇妙なのは、ブリーフに足袋のみで、着ていたはずの服は見当たらない。妻は入浴中に浴室の扉を芯張り棒で閉じられ出られなかった。脱衣室には、分家の主人(兄弟の叔父にあたる爺さん)の名刺が2枚階段に画鋲で停められ、一枚はとても小さくて読みずらい文字が逆さ。屋敷にない服はのちに神社につるされているのが発見される。知らせを聞いて東京から駆け付けた弟は暗闇で誰かとぶつかって、堀に落ちずぶぬれになった。
 この一族はそろって遊び人で艶福家。兄(49歳)は神社の巫女を妾にし、先妻の息子(26歳)は夜な夜な土浦にでては、スナックの女の子を口説いている。分家の同い年くらいの若者もしばしば目撃している。最初の事件のあと、先妻の息子のネクタイと、蔵にあった樽に団扇車という骨董が盗まれているのがわかる。
 二番目の事件は、この先妻の息子。最初の事件が滝夜叉姫の仕業と思われるので、太郎や片岡が屋敷で頑張っていると、外で鈴の音。総出で調べているうちに、息子が大木の下で倒れていた。仕掛けのひもを弾いて落ちてきたうさぎ樽が頭部を直撃したらしい。手には丑の刻まいりの藁人形をもっている。
 第三の事件は、神社の大祭り。「走り火」という仕掛け花火を使った大仕掛けなもの。たくさんの人出になる中、田原家の人が狙われるかもと、警察や探偵たちが警戒する。最後の将門登場の仕掛けが終わったあと、田原家から花火があがる。驚いて第二の事件の被害者が使っていた離れにいくと、ここだけ今風の家に建て替えられていて、内側から鍵がかかって入れない。そこに太郎と片岡に依頼に来た女性が全裸で死んでいる。国文学専攻の女性が手にしていたのは起請証文(そこに鴉の図案が描かれている)。
 いやあ、もりだくさんなこと。田舎の旧家とそこに伝わる怪奇の伝承。現代に怨霊が甦り、丑の刻参りを実行するものがいる。土地には明治以前の祭りが残り、旧庄屋を中心にしたシステムが残り、反発しながらも従うしかない中年に老人。若者は都会の風俗と事物に憧れ、土地にいたがらない。ここはジョン・ディクスン・カー横溝正史の探偵小説の背景に似ている。でも決定的に異なるのは、これらの背景の不可解さをそのまま信じている人はひとりもおらず、全員が現代的な合理的な考えと経済の損得で動く打算を持っている。なので、カーや横溝の探偵のように関係者の憑き物落しをする必要はなく(なので全員を集めて「さてみなさん」のシーンはない)、太郎と片岡は関係者にことさら感情移入することなく、冷静に事件を眺めることができる(ビジネスの失敗に対する責任だけを感じる)。事件の構図は錯綜しているが、その理由は上に書いた謎と証拠・遺留品の意味を検討することで解決する。そのうえ、事件の動機もカーや横溝の時代よりも現代的(ただし21世紀にこれに共感できるのは中高年のわずかな層だけだろう)。この動機も作中に書かれているが、きっと初読では見逃すはず。おまけに、30の章の冒頭には作者によるとおもわれる文章があって、いろいろ推理の手伝いをしている。これも巧妙な罠になっている(カーの「九つの答え「読者よ欺かれるなかれ」より精緻でフェア)。テキストにもミスディレクションをしかけていて、知的構築物としては最高品質にあるもの。
 人によっては、作者の最高傑作。パズラー、ないし謎解きとしてはころほどの水準のものはめったにない(1920-30年代の長編黄金時代の作品に匹敵)。奇妙なのは、この国で探偵小説や推理小説のベスト100とかを選ぶときに、なぜかこの作品はめったに取り上げられない。完成度の高さがそのまま評価に結び付かない。個人的な見解では、作者の高度な技術が縦横に張り巡らされて、作品内部が精密になっているため。読書することで、作品の外に向かう想像力を働かせる余地がほとんどない。「黒死館殺人事件」「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」が、探偵小説の論理を逸脱していたり、論理的な整合性を欠いているにもかかわらず今でも読者を持っていて高評価を得ているのは、探偵小説の外に向かう想像力を読者がさまざまに働かせることができるからだと思う。