odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「霊長類南へ」(講談社文庫)

 中国辺境の地にあるミサイル基地。毛沢東主義者の青年将校と科学技術士官が恋のさや当てで発射室内で大乱闘。蹴り飛ばされた将官がパネルに激突。そのとき発射ボタンを押してしまい、核ミサイルがウラジオストックと三沢に飛んでいった。迎撃などできるはずもなく、即座に米ソの報復システムが発動。最初の爆発から数時間でユーラシアをアメリカ大陸の主要都市は蒸発してしまった。たまたま東京は目標から外れていたので、直接攻撃はなかったものの、世界中の放射性物質は風にのって拡散し、被災地でない人もいずれ放射線障害を発症するであろう。
 1950年代後半の冷戦の時代、西洋諸国では「最終戦争」ものがたくさん書かれた(映画にもなった)。邦訳されたものは全部読んできたという作家は、自分の「ライフワーク」として核戦争による最終戦争小説を書く。核爆弾そのものの被災状況は書くことをせず(ヒロシマナガサキの体験談が小説、手記、映画、ドラマなどでたくさん描かれていた時期だ)、いずれ被害にあうことを予感した人々のパニックの様を描く。そうすると、報復システムを停めることができず首脳同士の会談もできない米ソの政府や官僚の無様さがあらわになり、あるいは最初の一方を聞いたとたんに盲目的に「いま-ここ」から逃れようと群衆が暴走するようになり、都市の戒厳令下で軍や警察の命令を聞かず、わずかな交通機関に殺到して機能をマヒさせ、あるいはアルコールに耽溺し強奪や商店襲撃を行うなど無様なさまをエリートが示し、みずからを永らえるために他人の権利や生命を奪うことを平然と行い、秩序を失って政府や軍隊のシステムが瓦解する。まあ、限界状況において、人間のみっともない、みじめな本生があらわになるのである。とくに、政府や官僚、知識人、横文字職業などの社会エリートほどエゴイスティックで、他者の人権を無視するのであった。
 なるほどこれほど人間はみっともなく、さもしいものであるかと思うのであるが、さて、過去四半世紀でさまざまな災害を経験してきたこの国の人をみるとき、この小説に描かれた状況には違和感をもつ。すなわち、自然災害が起き環境が激変したとき、生活共同体や地縁共同体が機能している場所では、このようなパニックやエゴシズムは現出しなかった。むしろ自助と他助の仕組みが生まれて、一緒に生き延びようとしたのであった。おなじことはヒロシマナガサキの被曝の現場でも起きた。
 むしろ、パニックやエゴシズムをあらわにして他者に危害を加えたのは、生活や地縁に無関係であった機能集団のほうであったといえる。すなわち、満州の敗戦後にいち早く撤退して民間人を置き去りにした軍隊であり、民主主義の現場に鎮圧に送られた機動隊であり、自社の設備から放射能が漏出した際に撤退しようとした巨大企業。さらにくわえるに、デマや妄言にのっかって(あるいは利用して)、被差別民や被災者を攻撃・虐殺した軍や警察や自警団である(最後のには生活共同体や地縁共同体が参加)。このリストは歴史からいくらでも抽出することができ、50年前には「リアル」と思えた群衆のパニックは、今ではファンタジックに思える。
 1950年代の「最終戦争」ものはひとりの人間にフォーカスして、その人の目撃した光景を時系列に並べることで戦争の全体を描こうとした。しかしひとりの人間の体験では「最終戦争」の全体を把握することができない。この小説では主人公を新聞記者としたので一般人よりも多くの情報を入手しえたのであるが、全体把握には至らない。そこで、「全体」を描くためにパッチワークの手法をとる。ホワイトハウス東名高速、山手線、羽田空港、横浜港、地方の住宅、都市のアパート、市役所などさまざまな場所のその場限りのキャラクターの経験を枚挙して、「全体」を見ようとする。そのようなやりかたでしか、社会や世界はつかめない。個人の想念の記述は限界状況に直面した人の類型的な反応を示すことしかできない(なかでも最後の人間(「ブライアン・ジョン・バラード」という名前が秀逸)の最後のことばが印象的。現代の人間は悲劇においても、かっこういい言葉を発することができなくなった。それだけ卑小になったというわけか。
(パッチワークの手法で描かれる全体状況と同時進行で、新聞記者の「おれ」の物語が進む。こちらは、残り数日の命で何をするのが人間的かを考えて理性的に行動しようとする。「おれ」とその同伴者は「愛」の可能性にかけることになる。その人間的なところが、パニックになって他人を蹴落としたり、自暴自棄になって酒やセックスに耽溺したり、暴力をふるう快感に酔う連中を批判し、嘲笑する視点になる。理性的に判断し、利他的に行動する「おれ」と同伴者に読者が共感するように書かれている。でも、彼らの行動を振り返れば、必ずしも道徳的、倫理的であるわけではない。嫌味でエゴイスティックなディレクターをサディスティックにいじめ、部屋に侵入し食品などを強奪し女性を強姦しようとした暴漢・愚連隊を射殺する。法や治安組織が機能していないとき、私人が法の執行を代行することはあるが、小説のシーンでそれは正当になるか。彼らが「おれ」と同伴者の権利を勝手に侵害しているから、深く追求しないで、まあいいだろうとは思うのだが。ここらへんは東野圭吾パラドックス13」で登場人物たちの選択した道徳の論理と倫理ほどには深く考えられていない感じ。)
 もう一度、原水爆を取り上げた「最終戦争」テーマの小説について振り返る。自分の貧しい読書や映画鑑賞では、このテーマでは放射線障害によって以下に死ぬかが描かれなかった。死が確実になったときに、うろたえることなく自分が死ぬことを受け入れるまでがかかれた。ここでもそう。でも重要なのは、そのあといかに身体に苦痛が生じ、看護の手が差し伸べられず、下痢や嘔吐や貧血などで身体が徐々に損なわれつつ死に至るまで。それを書くことは難しいだろうと思うが、そこに踏み込んでほしかった。他者、特に国家によって強制される死には美や崇高さがまったくないことを明らかにしてほしかった(その点では「馬の首風雲録」はしっかり踏み込んでいたなあ)。
 このあとも戦争は作家の「ライフワーク」のようなテーマになった。思いつくだけでも「虚航船団」「歌と饒舌の戦記」などがあり、別の戦争の諸相を描いているが、方法と視点はこの「霊長類南へ」を継承している。そしてこの小説にある欠点を克服している。作家20代後半の長編は技術が雑であるが、後年の傑作を予感させるものとして貴重。

      

参考エントリー
2017/06/14 開高健「紙の中の戦争」(岩波同時代ライブラリ) 1972年