2018/12/24 柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)-1 1980年の続き
この本の方法からするとよくないことだろうが、1860年代の討幕運動、1870年代の維新勢力の内部抗争、1880年代の自由民権運動のあとの明治20年代(おおよそ1890年代)は、政治的には安定し、日清戦争に典型的な帝国主義を開始したころ。維新政府誕生後に整備してきた中央集権制度がこのころからうまくまわりだし、定着していく。法であり、貨幣や証券であり、医療であり、教育であり、軍隊であり、まあいろいろ。自分らはこれらができて定着してから後のことを知っているから、発案から定着までの戸惑いや反発、熱中や同意などのさまざまな反応があったことを知らない。そのような痕跡が残されていても、定着してからの視点で見て/読んでしまう。そうすると、自己とか内面とか風景などアプリオリに存在していて、過去の人間は消化するまでの未熟を示しているとみてしまう。そういうドクサを払いよける指摘の数々が書かれている。
もう一つの驚きは、文学は政治とは無関係な知的エリートの個人的な運動であるという見方が覆されること。言文一致が文学者の欲求ではなく、前島密が最初に言いだし、行政文書の改革を促したところにある。あるいは医療制度や医学知識の普及が病いをモードや飾りにして文学的なキャラクター創造に向かったところ。明治のエリート青年がキリスト教に熱中し、教義よりも制度(告白や主体の放棄ののちの主体確立など)に興味をむけたところ。など。
第4章 病という意味 ・・・ 明治20年代にこの国では医療制度ができた(法制度や文学の誕生と同期)。西洋由来の医療制度では、医療は中央集権的であり、政治的であり、健康と病気を対立させる構図を持っていた。そのうえ病気=病原菌説が普及していて、病気は根本的に治療するべき政治的な問題であった。これは近代医学の知的制度があるからで、病のメタファーには政治的な色合いがついている(なので、病気の一掃がメタファーとしての病の終わりになるというS・ソンタグの主張は違うという)。中央集権的、政治的な医療制度と並行関係にあるこの国の近代文学でも、病や医療は政治的なメタファーをもっていて、文学にかぶれることが医療制度(およびそのメタファーである病の根本的治療や病人の排除などの思想)に組み込まれることであった。
第5章 児童の発見 ・・・ 明治3年に義務教育制と徴兵制が同時施行された。同年齢を集め、儒教イデオロギーを教え込むのは共通。同じく工場でも同様の教育がなされた。近代国家は、従来の生産様式と身分から独立した「人間」を形成するという点で、一種の教育装置である。教えられる儒教イデオロギーは農民や町民には無縁(武士には具体的)なので、世間に出たときに教育されたことは矛盾にさらされる(その矛盾意識が青春期)。このような制度と、ロマン派の「成熟」「天才」「青年期」概念がまじりあって、文学者は子供と大人を分割する。そこから「児童(真のこども)」が発見される。近代文学は明治30年代(おおよそ1900年最初のゼロ年期)に一般化するが学制の定着と関連している。
(以前小川未明「童話集」(旺文社文庫)を読んで、つまらない、子供が書けてないと思ったのだが、著者は作品を生み出した視線を問題にしたわけか。こういう発想ができるのはすごいなあ。)
(あわせて児童文学が近代文学に10年遅れて誕生する。
第6章 構成力について―――二つの論争 ・・・ 近代より前の文学を読むと「深み」を感じないことがある。それは「深み」がないのではなく、それを感じさせる(遠近法的)配置(パースペクティブ)がないから。パースペクティブ=遠近法はキリスト教やプラトニズムのような形而上学依拠している。ただし、近代の遠近法ではデカルトの測定可能な均質空間、主観‐客観の区別を前提にしている。遠近法的配置には二通りがあって、奥行き(前―後関係)と深層(上―下関係)。均質空間では時空変換することが可能であるので、奥行きや深層の階層関係はヒエラルキーであり、時間経過(すなわち進化や発展)の観念を産む。
その一 没理想論争 ・・・ 明治20年代の逍遥と鴎外のシェイクスピアの読み方の差異。「理想」観念のくいちがい。
その二 「話」のない小説」論争 ・・・ 昭和最初のころの芥川と谷崎の論争。「話」をめぐる対立とされるが、別の読み取りでは共闘に見える。
(この章はお手上げ。重要なタームである「配置」「構成力」「物語」をとらえきれなかった。通常の用語と異なる/多義的な使い方なので、通常の意味にひっぱられてわけがわからなくなった。)
第7章 ジャンルの消滅 ・・・ 講談社文芸文庫版には収録されていない。
後半になってよくわからなくなった、というのは、この本で対象にしている1890年から1930年までのこの国の小説をほとんど読んでいないから(まったく未読というわけではなく、たいていは高校生の時に読んだきりなので覚えていない)。逍遥、四迷、独歩、漱石、鴎外、花袋、藤村、龍之介、潤一郎、直哉、未明。漏れた人多数。彼らの作品と問題を知らないので、どうにも歯がゆい。といって、彼らの作品を熟読したいという欲望があるわけでもなく、どうにも歯がゆい。
押さえておかなければならないのは、この本で「風景」「内面」「告白」「病」「児童」などの観念の由来について、そして近代文学の起源を検討しているのであるが、あくまで「この国」についての議論であるということ。ヨーロッパの小説や中国の小説の起源には全く届いていない議論。なので、タイトルにあるように「日本近代文学」に限った話であることに注意。自分の関心からいうと、この国の国家が中央集権を強化するために、ヨーロッパから輸入した各種制度が、思いがけず文学の形式と内面化をもたらしたというところが、この国の「歴史」と照合してとても面白い(そういう「歴史」的な議論ではないと著者は憤慨するはず)。
でもそのような輸入した外国の制度がその国の文学の制度化にかかわったというのは、なるほど19世紀ロシアや20世紀中南米にも並行関係があるだろうが、イギリスやフランスの文学には見ることができないだろう。当然古代ギリシャや古代中国の「文学」にも適用できない。その点ではドメスティックな議論。部分的には上記の「遅れてきた」国家の、抑圧を経験しながら作ろうとした文学には利用できるかもしれない。