odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

柄谷行人「隠喩としての建築」(講談社学術文庫)

 「日本近代文学の起源」のあと、問題意識が移動?拡散?変化?して、原理的なことを考えるようになった。その考察の途中をまとめたのが冒頭からの「隠喩としての建築」連載。あとがきによると「ゲーデル的問題」であって、所収のほかの文章にもゲーデルは何度もでてくる。
 自分はこの本は初出の10年遅れで読んで、そのときにはニューアカ現代思想の解説書で「ゲーデル的問題」はさんざん読んできた。たぶん知っている話ばかりだが、詳しく書いてあるなあくらいの(雑な)感想をもった。なので、今回の再読でも、「ゲーデル」「決定不可能性」「地と図の反転」「ディコンストラクション」などのテーマにはあまりふれず(なにしろこれは「ノート」だから)、気になったところをメモしておくことにする。サマリーなんか作れるはずないし。

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隠職としての建築 ・・・ 雑誌「群像」に1981-82年に断続的に連載。
建築への意志: 西洋の知の特徴のひとつは「建築への意志」。進化=制作=作品の見方(いっぽうに、創造=生成=テクストの見方もある)。哲学や科学の危機は自然言語のあいまいさから。

自然都市: ツリーとセミ・ラティスについて。セミ・ラティスの多義性はもともとツリーの一義化に基づいている。

基礎論: 自己言及性のパラドクスについて。形式主義を徹底化した先の「決定不可能性」。形式化は指示対象や意味内容、文脈をカッコにいれて、項(それ自体には意味のない)と項の関係のみを考察すること。自然、現実、経験からかい離して、自律的な世界を形成する。なぜ形式化が生じたかを外在的に説明できない。

建築としての隠喩: わかるはアナログであるとすると、はっきりさせるは他の言語の翻訳すること。そこからメタファーの関心が生まれる(この後の自己言及性やダブルバインドなどは面白いが、よくわからないのでスルー)。中心や秩序を花袋するのは周縁ではなくて、一義性・論理性を徹底化するもの。そこでメタファーは不可避。(ここは西洋古典音楽を「解体」したのは、周縁のストラビンスキーやバルトークではなく、形式化を徹底したシェーンベルクだった、というようにメタフォリカルにかたる。)

 

レトリック: さまざま比喩の形式について。(よくわかりません)


形式化の諸問題 1981.09 ・・・ 前半は「隠喩としての建築」を「要約的に再構成したもの」で、後半はマルクスの価値携帯分析が古典経済学の構図をディコンストラクションしたという話。

鏡と写真装置 1982.03 ・・・ 鏡は内省で共同主観性に基づき西洋哲学のメタファー。写真・録音の複製装置は「私」に生じるおぞましい客観性(自分の声や顔を他人のように聴く/見る)をもつ。この装置が、風景を形成し、内面を形成した。でもなれると、主観性の哲学を強化する。
(ちなみに1986年に放送された「TV進化論」という番組で著者がこの論文の一部を朗読した録音を聞くというコーナーがあった。GSという浅田彰氏編集の雑誌に、番組の全文が収録された。ネットにアップされているのは、浅田彰氏の登場部分だけとのこと。)

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検閲と近代・日本・文学 1981.09 ・・・ 江藤淳の戦後GHQによる検閲研究に対する方法の批判。柳田国男の「検閲」を取り上げて、江藤のようなメタレベルの分析が言語空間にはできないことを説明。あわせて明治の神社合祀が柳田の民俗学を形成したことを主張。
(江藤の研究は当時ほとんど反響がなかったが、35年後に「WGIP」なるデマのもとになってしまった。)

 

核時代の不条理 1982.08/小島信夫論 1981.08/内輪の会 1981.09/言語という謎 1982.03/伝達ゲームとしての思想 1982.06/建築への意志 1982.03/病の記号論 1982.09

 

隠喩としての病』にふれて 1982.06 ・・・ ソンタグの本はアメリカの特殊事情で書かれているので、他の国にはあてはまらない。病の隠喩作用には異論がある(「隠喩としての建築」に書かれていてはずだが自分は読み落とした)。あと日本ではがん告知は行われないだろうという予言はあたらなかったようだ。

 

八〇年代危機の本質 1981.04/アメリカの思想状況 1981.05/中上健次への手紙 1981秋/サイバネティックスと文学 1982.01/凡庸なるもの 1982.02/リズム・メロディ・コンセプト 不明

 

 このあと「構造と力」からニューアカブームがあって、現代思想の本がよく出たのだけど、そこにあった現代思想の見取り図はだいたい「隠喩としての建築」で取り上げた問題や思想家や本をなぞったものだったのだなあという感想。たとえば別冊宝島の「現代思想・入門」「現代思想・入門 2」など。ああ、この本の影響もあって、あのぶっといダグラス・ホフスタッター「ゲーデルエッシャー・バッハ」(白楊社)も読んだのだっだ。その点では、ツリーとセミ・ラティスダブルバインドパラダイムなどの話は懐かしかった。
 今では「ゲーデル的問題」や「決定不能性」などどこでも聞かないので、いったいどこにいってしまったのだろうとここも懐かしく思う。ツリーとセミ・ラティスの話では、他の本では続けてドゥルーズガタリの「リゾーム」が出てきて、今後の組織はツリー状ではなくリゾーム状の横断的なオーガニゼーションが必要なんてこともいわれていたけど、さてリゾーム状組織の成功例は聞かないなあ。そういう点では、著者ではなく、その周辺で「戯れ(これも当時よく使われたターム)」ていた連中が1980年代にやったのは、嵐になることで、掘っ立て小屋ではなかったのかしら(と小屋をつくれもしない自分が偉そうに言う)。
 再読で読み落として失敗したと思うのは、比喩とテクノロジーの問題。自分に関心あるテーマではテクノロジー。感性といっているものが古びたテクノロジーであるという指摘その他をしっかりまとめておけばよかった(再読は面倒)。