たぶん鈴木三重吉といっしょにこの国の童話の基礎を作った人。1882年に生まれて、小説家として1904年ころから作品を発表。しだいに童話に移行して、1925年からは童話作家を宣言。1961年の死去までたくさんの作品(600編ともいわれる)を書いた。
なるほどかつて児童の時に未明の童話を読んだ。熱心だったかというとそうでもなく、今回の読み直しで30編ほどを読んで、やっぱり面白くなかった。それを考えてみた。
とはいえ、この人の執筆活動は長くて、大正期から始まり、戦中の国策童話もあるし、戦後に書かれたものもあり、その間に立場や考え方がいろいろ変ったとみえる。なので、ひとまとめにするのはすごく危険なことだ。むりくりなのを承知の上で、気になったことを箇条書きに。
・異世界、周辺のもの、フリークスに対する忌避感: 人魚、牛女、黒んぼ(ママ)、動物、子供などが登場して、社会や世界の違和感や屈辱をもったりする。未明の童話では彼らには幸福はあまり訪れない。彼らは去るか、死ぬか。残った人々はときに郷愁や共感をもったりするが、たいていは彼らはいたことを忘れられてしまう。
・自然主義: ここでいう自然主義は文学運動ではなくて、そぼくな「自然に帰れ」「自然が大事」くらいの考えの意。農村や漁村の「自然と触れ合う」生活が大事、都市や資本主義のせわしない暮らしは人間の在り方をおかしくするという。都会や資本主義の象徴は「時計」。いくつかの童話に時計が出て、それが正確な時刻を指さず、人々の暮らしをおかしくし、人間関係をぎくしゃくすることになる。時計を捨てるのは、村や自然に戻る象徴的な行為になる。
・反科学主義: このテーマの象徴は「汽車」。汽車が自然と都市をつなぎ、自然の側にあるものが汽車で運ばれるが、その先にあるのがなにかわからないという不安がよく登場する。科学や技術が自然や村の生活や共同体の扶助を破壊し、人間の存在を不安にするのだね。
・共同体主義: 重要なのは、人間の共感で結びついた共同体。そこで相互扶助と共感でもって、ゆっくりと生活するのが人間的。だから、子供は所属する共同体のモラルを身につけて、徳義を高めていくことになる。いっぽう、老人は共同体の知恵を体現している大事な存在。彼らの叡智に学ぶことは寛容。不思議と仕事をする大人は童話にはほとんど現れない。
といって、未明の童話がこのような主張をそのまま表したものともいえない。ときに結末があいまいで、もしかしたら上にまとめたような主張を覆しているかもしれないというものが散見するから。ハッピーでもバッドでもない結末で読者を不安にさせる。そういうのが「赤い蝋燭と人魚」「月夜とめがね」のようなファンタジックなのにまじっているので、この人の全体がよくわからない。自分の中ですごくもやもやしている。まあ、気持ちは面白くなかったに落ち着いているのだが。
ネットでみると、戦後未明の童話は批判され、一時期は本屋に未明の童話がなかったという。1970年以降には再評価の動きにもなったという。毀誉褒貶、評価のダッチロールは続いているわけだね。
旺文社文庫は入手できないようだが、ほかからいろいろでている。