odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

岡本綺堂「妖術伝奇集」(学研M文庫)-2 「わが国在来の怪談は辻褄があいすぎる」という苦言

 中・長編のあとは、戯曲に短編に随筆。
 まずは戯曲から。


平家蟹 1912 ・・・ 木下順二「子午線の祀り」の後日談、というのは、双方の作者に失礼か。壇ノ浦の戦のあと、落ち延びた官女あり。身を隠すに暮らしは立たず、なさけを売る上臈。何の因果か那須与一の弟と昵懇になり、那須の原にもどるにあたり、上臈玉琴も連れるというを姉の玉虫に知らす。それは重畳と神酒で婚姻の盃にするも、それは毒酒と成り果てぬ。すなわち玉虫の怨念凝り固まって、蟹の背に憤怒の顔を載せ、源氏を三代までには滅ぼさんとする呪いこそかけられたり。暗闇の中、蟹の這い上がる姿に、入水した平家の大将の名を呼ぶ玉虫の姿こそ恐ろしき。

蟹満寺縁起 1911 ・・・ 蛙がのんきに歌っているところを蛇が捕らえる。あまりにかわいそう、と娘が懇願すると、蛇は蛙を逃がす。かわりにお前を嫁にしようといいだした。そばで聞いていた蟹がひと肌脱ぐことにする。これぞ寺社の縁起。まあ、それはよいとして、「弱いものは強いものに勝てないから、強いものになれ。強いものになってから弱いものを助けろ。で、弱いものは強いものに勝てないから、泣き寝入りをするしかない」。ここらのセリフにはどうもねえ、強い違和感。

人狼 1931 ・・・ 狼が出るという噂の村。人が襲われ、墓が暴かれる(当時は土葬)。山狩りをするなどして狼を退治しようとするがはかがいかない。ある浪人の妻、人に針仕事を教えていたが、その娘が襲われてしばらく、再び気性おかしくなり、山より呼ばわる声が聞こえる。村人に追われて、人事不省になったところを、伴天連に助けられる。サンタ・マリアの像を借りて、迷いを解こうと試みたが…。まず、この国にはいなかった狼憑きが出てくるところが新しい。一方で、物語は古くからの動物憑き。伴天連が真実を明かす一方で、仏教の念仏は効果がない。これらの古さと新しさがブレンドされて、珍しい一編になった。

青蛙神 1931 ・・・ 大連に暮らす中国人一家。3年前に泊めた旅の男が帰ってきて預け物を返してほしいという。そこには三本足の青い蝦蟇がいる。名付けて青蛙神。なんでも願えごとを叶えるというので、8000両を頼む。それから5日目に、娘が工場で事故死、息子が盗賊との格闘中、流れ弾に当たる。それぞれ弔慰金と保険で8000両になった…。ジェイコブズ「猿の手」の翻案か。この時代、銀行は安心できないとして預金を渋るというのが一般だったようだ(昭和恐慌のころ)。

 

 続けて短編。
青蛙神 1924 ・・・ 青蛙堂主人が春の雪に百物語を主宰する。主人は青蛙神の置物を入手したので、明代の青蛙の怪談を一席語る。「鶴女房」のような異界の住民との結婚による奇縁とその発覚による破局

蟹 1914 ・・・ 地方の大百姓(@網野善彦)が俳諧師など文化人を呼んで宴席を設けた。客が一人増えたので、メインの蟹が一匹足りない。無理して工面すると、占いもよくする俳人が死相が見える食うなと言い出す。それから家に不幸が続く。蟹の祟りというのは珍しいのじゃないか。

五色蟹(不明) ・・・ 伊豆の温泉で、夜温泉が女の首が突然消えた。その後、失神した女性と亡くなった女性が見つかる。事件の線はあまりなく、語り手は土地の古い言い伝え「あばた蟹」に思いを寄せる。これを合理的に解こうとすると都筑道夫「最長不倒距離」ほかになるわけだ。大正から昭和のころにも、独身男性会社員や女学校の生徒がグループ旅行をするのが一般的だったのだね。そこでときにロマンスが生まれたりする。

木曽の旅人(不明) ・・・ 木曽の山奥にある小屋に奇妙な訪問者が。うまい飯に酒を差し入れたのだが、子供と犬が怯えるばかり。いったい彼の正体は…。冒頭からしばらくはシューベルト「魔王」みたいな展開。

 

随筆「江戸の化物」「高坐の牡丹灯籠」「舞台の牡丹灯籠」「小坂部伝説」「怪談劇」「温泉雑記」「木曽の怪物」
 和漢洋の怪談、怪異譚、妖術譚の収集家にして博物学者である著者の気軽な書き物。内容もさることながら、

「わが国在来の怪談は辻褄があいすぎる(P781)」

の指摘がずんときた。因縁因果を明快にしすぎて怖さを減じるという。なるほど、西洋の怪談やモダンホラーでは理由や原因を明らかにしないことが多いのは、この種の欠点を克服するためののものか、と膝を打った。あと、怪談や怪異譚は差別と紙一重にあって、彼彼女が妖異・怪異の側にあるというのが差別意識の反映であることが多い(性とか生まれとか職業とか)。なので、読者はここに意識的であることが要求される。

 

 戯曲、短編になると、作者の技巧の妙味を味わうことになる。とりわけ構成の妙。素人が書くと、前半に詰め込みすぎ、後半は駆け足になって、物足りなさを味わうものだ。ここでは、寸分の狂いもない。前口上は長すぎず短すぎず、読者の趣をとらえたらすぐさま本文を書きだす。人物や舞台の紹介に行数を割くことはせず、会話と行動のなかに埋め込まれて、物語の進行に興が乗ると、おのずと状況は知れる。中盤においては小事件が起きて、読者に引っかかりと期待をもたせ、クライマックスへの伏線を張ることもわすれない。そしてクライマックスで冗長になることをせず、一気に畳みかけて、読者を翻弄させる。そしてすぐさま日常に戻して、怪異を振り返り、それが読者の現実に地続きであるかと思わせて、ページを閉じた後の余韻を残す。さすが!と大向こうをうならせるかけ声のひとつもなげたくなるというものだ。
 なるほど書かれてそろそろ百年になろうとすると、文体も物語も古めかしいと思われそうだ。しかし、そこにあるのは現代の怪奇物語やホラーの特長を先取りした驚異の作品群ばかり。自分も再読するまでたかをくくっていたが、なんともよい方向に裏切られた。「半七捕物帳」ばかりが作者の主要作品ではない。この作家の筆になるものはもっともっと読むべし。

 

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