odd_hatchの読書ノート

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夏目漱石「こころ」(新潮文庫)-2

2022/01/21 夏目漱石「こころ」(新潮文庫)-1 1913年の続き

 

 おさまりが悪いというのは、対象に思い入れを入れすぎない冷静なカメラアイが謎を解くのではなく、渦中の人が告白をするというスタイルのせいだ。「先生」は付き合いを持たず、他人との関係が希薄で、何もしていない。世間が嫌いで人間も嫌いで、自分も信用していない。そういう寡黙で内にこもったとりたてて特長のない男が内面においては実に感情豊かであり、その心理の動き具合を詳細に書くことのできる能力をもっているというのが意外で驚きになる。「先生」は手紙で記録を残す理由を以下のようにいう。

「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。」

 ここは不同意。全くそう思わないんだよな。むしろ、自分が在ったという記録や記憶が一切残らなくて構わないと思っている。
 通常、告白は語り手が真実を話しているという暗黙の了解がある。柄谷行人によると、カソリックの告解が起源だそうだ。神(ないしその代理人)を前にしたときに嘘はつけないというルールが、手紙や告白などの小説の形式にも適用されたのだという。その前提が日本の小説にも継承された(19世紀のロシア文学を翻訳するところから始まったのだし)。ここからは俺の妄想だが、日本の小説が問題にしてきた「自我」はこの告白や内省において発見されるものではないかということ。「私」は多少の社交をするのであるが、交際の現場では私がなんであるかは問題にならない。相手が誰であるか(年上目上か、若輩部下であるか、女性かなど)で自分はさまざまな行動性向を取り、自分の根拠や基盤を問題にしない。一人になって孤独のうちにあるときに、自我が目覚め、自己の存在理由を探るようになるのだ。そのような孤独で内省の文体を使うことによって、日本人は「自我」を発見していったのではないか。
 「先生」「お嬢さん」「K」など事件に関係する人は、田舎から都市に出てきた人。学生は当然家を離れて上京し、都市に仕事を持つ。その結果、彼らは田舎の共同体から切り離され、都市の地縁の共同体にも職場の組織にも所属しない。何かに所属するという実感を持たないで孤立化アトム化している。ことに「先生」は世間も人間も嫌いということで、孤立化は著しい。誰かと共同して何かを成し遂げるという体験を持たない。孤立化アトム化しているから、自己の不安定さがきわだつ。そこから「自我」を探索するようになり、なにものでもない自分がなにものかであるために国家や民族の概念に自己を重ねるようになる。このような「自我」形成過程を妄想することができる。
(思い返せば、東京の前の江戸の頃から、この都市には地方民が流入してきた。彼らは生まれを同じにする人たちで集住することはなく、個々人に分解して住まいを作る。災害や火事などがあれば、簡単に住まいを捨てて都市から流出していった。土地に愛着を持たないモッブ的な性格は近世のときからこの国に根差していたのかもしれない。それがこの国を帝国主義化する一助になったのだろう。)
 閑話休題。「先生」に起きたことは前作「行人」をなぞる。女性に惚れた男がライバルかもしれない男を仮構し、彼を試す(「先生」はKとお嬢さんを房州に旅行に行かせたりする)。女性の内心は無視して、単にライバルを蹴落とすために、求婚する。そのような嫌がらせを続けるのは前作の「兄」も本作の「先生」も同様。この心理戦は勝者を生まず、仕掛けた側が「神経衰弱」に陥った。前作の「兄」はそのことを告白する相手がいて、どうにか生活できるが、「兄さんがこの眠から永久覚さめなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします」と友人に憐憫されるにいたる。「先生」にはそのような相手はいないので、煩悶の末に自死を決意するまでになる。「先生」(および「兄」)に必要だったのは、資産や奥さんではなく、ちゃんとした治療だったよなあ、苦悩を「承知」する誰か(できれば家族以外)であったのだよなあ、ということになる。以上を踏まえて「行人」と「こころ」は対になった作品。どちらもある種の行動性向を持つ者には明治は暮らしにくかったというのがわかる。
 「こころ」の発表は1913年で同時代を舞台にしているという前提にいると、学生で下宿暮らしをする「先生」がKと心理戦を行っていたのは1900年前後(明治30年代後半)と推測される。「先生」はKにこういう。

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

 「精神的に向上心の」あるものが優秀だという評価はいつごろから成立したのだろうか。この価値観が社会規範と受け入れられるにあたって、どのような文化運動があったのだろう。俺がこの言葉を重要と思わないのは、内面や精神や主体が変わることが善や徳の実践になるという考えに同意しないから。そうではなく、善や徳の行動を起こすことが大事。内面が善だろうが偽善だろうが、チャリティを継続し続けることは大変なんだよ。
 「先生」は明治天皇の死(1912年)に衝撃を受け、このように述懐する。

「私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。」

 「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉と合わせると、明治の精神は天皇の周りでぐるぐると向上する心の運動になってしまう。それは基本的人権の尊重などからは無縁の運動だ。このような国体観が1912-13年に日本の知識人に定着したのはいつごろか。どうして「精神」が「天皇」の存在なしに考えられないようになったのか。
 俺の予想では明治憲法教育勅語の制定にある。これに基づく帝国主義政策が推進され、行政が改革を進め、教育内容が変わり、メディアが後押しをした。これらの法律の制定は1890年前後であるが、わずか20年足らずで国民の意識に植え付けられてしまった。「先生」は都市のモッブとして暮らし、自由であるように見えたが、骨髄まで帝国主義の臣民になってしまっていたのだった。それが「最も強く明治の影響を受けた」ことの核心。
(実際、漱石だって日本人として植民地の満州や朝鮮を旅行することで、帝国主義の差別者のふるまいをしてしまう。植民地にいって変化したのではなく、もともと差別者として教育されていたから、すぐに順応したのだろう。)

 

  

 

 柄谷行人柄谷行人「言葉と悲劇」(講談社学術文庫) 所収の「激石の多様性―「こころ」をめぐって」でこの小説のことを書いている。俺のまとめを再録。

漱石の謎は、文体(小説、俳句、漢詩、英文など)の多様性がなぜ可能だったかにある。「こころ」にでてくる「明治の精神」は、明治10年代にとざされた明治維新の可能性(シンボルは西南戦争)とみるべき。先生、Kの世代は近代国家の確立で、政治的に挫折し、内面・精神の優位を掲げて、世俗的なものを拒否して対抗した人たち。漱石も近代の小説中心主義やその抑圧性に抵抗し続けたとみるべき。「明暗」を絶頂と見ない方がよい。」

 とんだぼんくらですな、俺は。たしかに、この感想では「K」にフォーカスしなかったし、内面化の理由を逆さに見ている。
 たぶん俺は「三四郎」で「先生」のような「新時代の人」がどこから出てきたかをみたのと、「こころ」の前に笠原英彦「明治天皇」(中公新書)を読んでいたので、明治天皇の政治性や明治維新の可能性を評価しない立場で読んでいたからだろう。なるほど、同時代の人にとっては明治維新(と後の自由民権運動)に可能性を見出すのは、現状批判・政権批判として有効だったのかもしれない。「漱石も近代の小説中心主義やその抑圧性に抵抗し続けた」の指摘があるが、植民地支配を肯定して差別者になっているのを見ると、漱石に「抵抗し続けた」を見ることはできないなあ。