odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

笠原英彦「明治天皇」(中公新書) 大日本帝国の内閣、天皇、宮中の天皇補佐官による意思決定システムは明治天皇の死で制御不能の無責任体制になった。

 飛鳥井雅道「明治大帝」(ちくま学芸文庫)を読んだのが20年近く前。明治天皇の事績を忘れてしまったので、今度は別書を読む。

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 明治天皇は1852年生まれ1912年没。享年60歳。外国との接触を極度に恐れる孝明天皇の子として生まれる。1840-42年のアヘン戦争のうわさが伝わるにつれて、西洋ことに英国に恐怖を感じるようになり、1852年にアメリカ、ロシアが相次いで開国要求。うろたえるばかりの幕府は権威を急速に落とし、孝明天皇の攘夷の命は各地の下級武士を鼓舞し、幕府重臣の暗殺にまで至る。そうすると宮廷が新たな政治的権威として浮上し、天皇直系の唯一の男子は朱子学を主とする帝王学を学ぶことになるのであった。とはいえ、この子供は才気煥発ということはなく、気分にムラのある疳高い子であったが、頑固な努力家であり、20代に至ると政治的使命を遂げる意識を持つようになる。とはいえ、この評伝を読むに、明治天皇は信頼する大人を頼りにし、彼の指図の枠の中で物事を決するような人ではなかったか。それが家庭教師の元田であり、のちの大久保利通伊藤博文なのである。あいにく彼らは天皇より先に死亡してしまう。ことに50代は病気がちであり(若い時から酒に耽溺、脚気を患う)、政治的な介入も控えめになる。もっとも政治的であったのは、30-50歳まで。大日本帝国憲法制定にハッパをかけ(もちろん条文作成には関与しない)、立憲君主制が確立し、日清・日露の戦争で宣戦を布告する。最後の戦争に関しては、天皇個人としては反戦の意であったが、内閣や政府の決定を覆すほどの決意はもたなかったのである。またほかの政令にあっても、彼個人の意思や発案にあるものはなく、内閣や政府の決定を事後承認するものであった。
 なので、彼の政治的思想やパーソナリティが、維新や明治政府等の権力に影響したと考えることもなかろう。むしろ、維新の時代に天皇を「玉」と呼んだ下級武士が天皇の権威を利用して、エリート官僚による専制をどのように作っていったかに注目する。欧米の国民国家の圧力で、日本は幕府の封建制から近代的な国民国家に変貌しようとした。その際に国民を政治的に統合させる権威や象徴が必要であるが、それが天皇を中心とした外敵排除の体験なのであろう。結果、エリート専制の権力と天皇の権威が一体化した政治体制となる。それは1945年の敗戦まで続く体制となった。
 国民からみると強固な体制であるが、明治天皇の一代記をみると最終的な政治的決定に関しては危ういところがあった。すなわち、決定には、内閣(と政府)、天皇、宮中の天皇補佐官の三つのグループがあり、三位一体のように見えるが思惑が異なるとこのグループの決定はうまくいかなくなる。内閣は天皇補佐官をコントロールできず、天皇補佐官は天皇をコントロールできず、天皇は内閣をコントロールできない(天皇は内閣の人事に介入するが、人事決定後の内閣の仕事に文句を言えない)。明治の時代は天皇が信頼する人物(大久保や伊藤だ)を中心にたてることで、それなりにまわっていた。昭和になると、天皇が信頼する人物がいなくなり、この三位一体は責任の所在が不明確になり、リーダーシップが失われた(顕著なのは昭和20年の降伏決定に至るまで。参考:大宅壮一編(半藤一利著)「日本の一番長い日」(角川文庫)
 大日本帝国のダメさは昭和になってから生まれたと思っていたが、すでに成立したときに内包していたわけだ。天皇が生活する宮中自体が専制君主を生み出しえないようなシステムになっているのかも(そういう意欲を持った最後の天皇は13世紀の後醍醐天皇。彼の政治運動も、武士や宮廷によってつぶされたのだし)。ただ、日本の政治的中心は専制君主を生まないようになっているのかもしれないが、地方や企業の小権力では容易に独裁者を生み出す。なので日本人は平等好きとか民主的であるとかと思ってはいけない。
 という具合に、タイトル以外のことを考える読書になった。