古来、永世の蝶なるものがあり、雌雄二体をそろえた者は覇者となる力が備わるという。この事実は知られていなかったが、天保十年(1831年)、武士・一式小一郎が深夜その話をささやく老人と娘とすれ違った時から話が転がりだす。小一郎は覇者になるつもりなどなかったが、娘の美しさをわがものとしたいと思い、併せて彼が使える田安家が対抗する一ツ橋家も永世の蝶を探しているとなると、先んじて入手し、鼻を明かしてやりたいと思うのであった。このように一式小一郎は英雄になるにはいささか世俗の垢がこびりつきすぎていき、他の小説の主人公らのような「解脱」の欲望を持たないのである。
小一郎は永世の蝶がいる場所を見つけようとし、三浦三崎に赴くと、果たして永世の蝶を預かり守護する昆虫館なる建物を人里離れた山奥に発見するのであった。そこには江戸で見かけた美人もいて、彼女も小一郎にぞっこんらしい。そこに遅れて一ツ橋家の家臣団もやってきて、にわかに沸き起こる剣戟の響き。どうにか撃退した者の、さらに山尼の衆が攻めてくるという報が届くと、昆虫館の主人はとてもかなわないと館を締めて、蝶を譲渡しようとするがすで何者かに盗まれている。蝶を奪取する欲望を持つ集団はほかにもあり、江戸に蟄居した昆虫館の主人と美しい娘は何度も襲撃され、ついに娘は囚われ折檻を受ける。小一郎らは娘と蝶を奪還すべく、館に忍び込む(ここのアクションシーンは力がこもっていて読みでがある)。
それから一月後、小一郎が秩父を捜索していると、一ツ橋家の家臣連中が追いかけてきて斬ろうとする。小一郎は奇策を用いて敵を錯乱させ、ついにはライバルの武士と一騎打ち。決着がつくかと思いきや、筆は次々に飛び、しばらく舞台に出てこなかったキャラの恋愛事情をまとめ、ストーリーにほとんどからまない山尼のことを書いておしまい。なんじゃ、こりゃー。ページか読者アンケートの都合で連載打ち切りになったマンガの最終回じゃないか。これほど投げやりでいいかげんな結末は読んだことがない。
ヒッチコックの手法にマクガフィンと手法があるが、その小説版がこれ。「永世の蝶」をめぐる物語のようだが、永世の蝶はついに現れず、それが不在であってもかまわない。それをめぐる欲望こそが物語で重要なのだ、そううそぶく作者の姿が見えてくるよう。前作「沙漠の古都」「八ケ岳の魔人」「蔦葛木曽桟」「神州纐纈城」でも、物語冒頭の妄執や秘宝などどうでもよいストーリーだからね。
ここには一式小一郎なる若者に一方的に惚れて押し掛ける君江という娘が出てくる。彼女、馬子一族の娘ということで馬には手馴れているが、他に特技も異能もない。作者の小説では珍しい普通の、市井の娘。そういう平凡な娘の一途さが、異能者や修行者たちに交じると、特別な存在になってしまう。作者の思惑を離れて自立したキャラになった。
他に褒めるとことがないのでここまで。1927年初出。
昆虫館という奇妙な施設が面白い。荒俣宏のエッセーで徳川時代の殿様の末裔が個人で植物園だったか動物園をもっていたというのを思いだす。分子生物学以前には、博物学を個人で楽しみ、コレクションを保管し、育種に励むディレッタントがいたのだね。ブッキッシュな話にすると、個人の博物館は、小栗虫太郎「失楽園殺人事件」、香山滋「オラン・ペンデグ」シリーズ、「妖蝶記」などにも出てくる。国枝の本作はその端緒になったのではないか。
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「蔦葛木曽桟」講談社文庫の解説によると、1930年代の作では「あさひの鎧」が佳作らしいので青空文庫で読んでみたが、あまりの内容の薄さで十分の一を読んだところでギブアップ。国枝史郎はこれまで読んだものでおなか一杯。もう読みません。