odd_hatchの読書ノート

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国枝史郎「神州纐纈城」(講談社文庫)-2 善と悪の理念の対立はうやむやになり、己の肉体を嫌悪するものは克服が可能か。というところで永遠に中断した。

2022/02/23 国枝史郎「神州纐纈城」(講談社文庫)-1 1925年の続き

 

 今ある分の後半(第12回以降)を読む。

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 ここで大きな設定が覆される。悪の巣窟・総本山ともいうべき纐纈城の城主は、甲府への憧れが募って城を飛び出し甲府の城下をさまようのである。世界から掃滅されたと思われる悪病の最後の罹患者である城主は、城下を歩き回ることによってパンデミックを引き起こし、「火柱」と名付けられて恐れられる。いったい何人を罹患させたものか、あいにく京都・仁和寺の僧侶、隆暁(りゅうぎょう)法印のような奇特で記録魔のような人物(@方丈記)はいないのでわからない。城主は起こした行為を反省することはないので、いつまでも甲府に着くことのできない現状を呪うのである。
 一方、富士教団の教祖・光明優婆塞(うばそく)は稀代の殺人鬼・陶物師(すえものし)との邂逅によって、自分の大悟を疑うことになる。教団にいることが辛いのであり、人知れず姿を隠す。その結果起きたことは、教祖を失った教団員のパニック。放置された人々は疑心暗鬼になり、教祖を罵り、異端・異分子をリンチにかける。一人のヒーローに依存したポピュリズム全体主義は当人の死や失踪によって彼らを統御するイデオロギーに疑念がわき運動がもろく崩れ、ようやく現実をみるというわけか。友愛の共同体のもろさをみた(ワーグナーの楽劇「パルジファル」も同じテーマを扱う)。そのあおりを食ったのは土屋庄三郎。隠している紅巾が見つかってリンチに会い、小舟に乗せられて湖に流される(闇にきらめく夜光虫の妖しい美しさ!)。行き着く先はいつも靄のかかる小島、すなわち纐纈城である。善の共同体から恐怖の支配する闇に突き落とされる。庄三郎はどのように変容するか(がここでしばらく退場)。
 ここに至って、前半の物語を推進していた善と悪の理念の対立はうやむやになってしまった。
 代わりに立ち上ってくるのは、人間の愛欲・愛憎の業について。ここでは二人が重要。すなわち、人を切らずにいられない陶物師であり、彼の衝動・妄執があきらかになる。彼もまた城主と同様に、愛する(と思い込んだ)女にフラれていたのであった。しかも彼よりも優秀とみなさざるを得ない若い男と放逐していた。城主と光明優婆塞に起きたのと同じ確執が繰り返される。陶物師の妄執は彼のもとを去っていった不倫の恋人を追うことであるが、彼らは面作師・月子を訪れ、造顔の秘術を施すよう頼むのである。逃げても逃げきれないのであれば、あってもわからないように顔の造作を変えればよい。ここで二人の恋人は能の仮面(少将のもの)を外さない城主と同じになる。城主と光明優婆塞のペルソナが逆転しているのが、陶物師と不倫の恋人たちなのだ。
 その面作師・月子であるが、彼女はどこからとも知れぬ命令によって「極重悪人の新面(にいおもて)」を掘るように要請されている。長年の修練とさまざまな悪人の知識と観察によって、月子は悪相の博物学者となった。そしてすでに千を越える面を作ってなお、満足いったことがない。人里離れ、人との交わりを立って、命令を遂行するという妄執は彼女を湖畔のあばら屋に閉じ込めさせることとなったが、偶然やってきた高坂甚太郎(鳥刺し)の

悪人なんていう者も、善人なんていう者も、この世に一人だってありゃあしないよ。悪い事をした時が悪人で、善い事をした時が善人さ

という言葉に動揺する。善悪は本性によって定まるという思想が善悪は行動によって定まるという解釈をぶつけられて動揺したわけであり、それを受け入れることは彼女の業を無意味にするのである。
 というわけで、前半の他人の存在や権利を侵害できるかそれを阻止するかという善悪の対立から、後半はそれぞれの個人が抱える空虚をいかに埋めるかという探索に主題は変貌する。すべての登場人物が「ここ」にいられることができず、旅と放浪にでざるを得ない。そしてそれぞれが抱える孤独・妄執・自己愛などを克服することが義務付けられているのだ。
 さらに彼ら登場人物は肉体を嫌悪する。妄執や愛憎をためる器として肉体は不十分であるか、邪魔なのである。しかも自分を無と思うようなものらは他人の肉体にも共感しないし、同情を示さない。自分の肉体を損壊することに躊躇がないように、他人の肉体には関心を持たず簡単に損壊するのである。この肉体嫌悪の克服は可能であるか。
 まず最初の変貌は纐纈城を捨てた城主に訪れるであろう。悪業に取りつかれ、妄執にとらわれ、他者の苦悩に全く共感せずむしろ喜びを感じる自己愛の持ち主が、甲府近辺をさまよう中で仮面をついに自ら外すのである。
 しかし、作者の筆はここで止まった。この先に、富士教団をでて荒野を一人でさまよう中、悪病を治癒する力を得た(しかし他者との交通を絶対に避ける)光明優婆塞と城主は対決せざるを得ないだろう。纐纈城にはいった土屋庄三郎は残虐と多幸の城でどのような変貌を遂げるのか。彼は光明優婆塞と城主の対立を止揚できるのか。土屋庄三郎を追い出した富士教団は彼の神秘の力を希求し再結集するのか。月子の妄執を解くのはだれか。陶物師の悪の剣はどこで塚原卜伝と相まみえるのか。これらを解くのは読者がやるしかない。恍惚と不安を覚える読書の快楽。
(この小説でもっとも劇的な変容を遂げるのは城主にほかならず、その象徴が仮面を外すことであるとすると、このシーンはもっと後に書かれるべきだったというしかない。そこに至る前に月子と邂逅し、月子によって城主の本心が暴かれる。あるいは光明優婆塞の神秘の手で悪病を癒され、己が道を悔恨する。そこにおける絶望の果てに仮面を自ら外し、光明優婆塞・陶物師・マッドサイエンティストらと対峙し最終決戦に挑むのが「正しい」筋だったと思うなあ。)

 

 後半はパンデミックの物語としても興味深いが、描写が差別的であるので、言を費やすのは止めにする。そのために本書は注意書きや解説が必須。
 作者の想像力は同時代の若い作家に影響を及ぼしたのではないかと妄想。闇にきらめく夜光虫は横溝正史の「夜光虫」「真珠郎」となり、月子の造顔術は江戸川乱歩の「幽霊塔」に受け継がれ、富士の裾野は石川淳の「狂風記」で新たな物語を紡ぎだす。という具合。

 

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