odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

広瀬正「ツィス」(集英社文庫) ツィス(嬰ハ音、ドのシャープ)の騒音で日本が終末を迎えるまで。

 神奈川県C市で突然ツィス(嬰ハ音、ドのシャープ、A=440Hzのときの557Hzの音)が聞こえだした。最初はかすかだった音は次第に大きくなっていった。発見者の精神科医はツィス分析器を作って、町中を計測し、世の中に警告する。騒音がひどくなると、人は精神失調を起こす、と。実際にツィス音が聞こえる範囲は広がり、特に東京でひどくなった。政府は困惑し、経済もおかしくなってきたので、関東地方の住民に疎開を命じる。

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 大状況はこういうもの。この事態を観察するのは、最初は発見者の精神科医。なかなか事象を認める人がでなかったので、テレビ局といっしょに測定と注意喚起を始めたのだった。しかし原因も発生源も不明のままであり、騒音レベルが日常会話不可能になったところで、彼もテレビ局も疎開することになり退場。後半は、聾唖のイラストレイター。ツィス音が大きくなったと言っても支障はないので、普段とおりの生活ができる。むしろ耳の聞こえる健常者のほうが不利益をこうむることになり、普段の差別が消えて心地よい。政府は疎開を勧めるが、彼は快適なので拒否する。すると、政府から連絡があり、さらに騒音がひどくなっても東京に残って観察と記録を続けてほしいと申し出てきた。思わぬ特典も得て、彼は騒音で無人となった東京に住み続けることにした。
 発表された1971年には、ツィスはさまざまな公害のアナロジーであっただろう。実際に、騒音(とくに幹線道路周辺の大型車両音)は被害がでていて、それだけでなく大気汚染(光化学スモッグ)、水質汚染、土壌汚染など、さまざま人間の経済活動による被害が多発していたのだった。当時の読者はそれらを瞬時に理解しただろう。被害者の悲惨も知っていたはず。でも本書では被害の深刻さはかかれず、疑似イベントに右往左往する横文字職業の軽薄さを浮き上がらせる。現実の悲惨さを忘れて、ひとときの快楽を得るというのはエンタメの効能のひとつなのでそこはつっこまない。
 後半のテーマに都市民の疎開がある。1971年ではWW2のさなかの疎開を思い出させる効果があっただろう。21世紀に読むとなると、事態は311を思い出すことになる。原発事故で放射能漏れを起こし、周辺住民数十万人が強制疎開させられた。そのときに起きたことが本書に先取りされて書かれている。無人になった町を少数の人が監視しているという描写も同様。あいにく作者は廃墟やコミュニティの消滅という政治学のテーマには興味がなさそうなので、深く掘り下げてはいない(深読みすれば、東京の都市住民は長年住んでもコモンを作らない放浪者・余計者の集まりであるとみているのかもしれない)。
 加えると、聴覚障害外国人差別があるというのに、そこも深く掘り下げない。昭和の時代はそうだったのかもしれないと時代の制約をみることになるが、今日的ではないな。
 冒頭は「SFボディスナッチャー」かと思い、科学者による対策班ができたあたりは「妖星ゴラス」かとほくそ笑み、危機の現場に観察者がのこるところでクラークの「幼年期の終わり」を想起し、疑似イベントの書き込みは「48億の妄想」かもと首を傾げた。そんな具合に本書の内容を考えることより、先行作を思い出すというのは小説の弱さなのだろう。東京に残るイラストレーターがT型フォードを欲しがるところに、作者の趣味が現れ、相変わらずだなあと微苦笑した(作者には「T型フォード殺人事件」というミステリがある)。

 

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