odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

筒井康隆「48億の妄想」(文春文庫)

 書かれた時代の日本によく似ているが、ひどく違った世界。大きくは、国民の住居そのたにカメラ・アイがあまた設置されていて、24時間撮影されている。統括するのは民間の「カメラ・アイ・センター」。そこにはテレビ局員が常駐し、面白い映像があれば瞬時にテレビで実況される。芸能人と政治家にはプライベートがなく、食事・性交までもが放送される。それを国民が嫌っているかというとそうではなく、他人に起きた出来事を面白がり、評論(というには内実に乏しいが)し、ときに自分がテレビに出たいと痛切に願う。テレビに出ることで有名になることが目的。なので、人々の行動は大げさで通俗的なドラマの演技を模倣する。あるいは聴衆、大衆の希望(と思われるもの)に合うようなしぐさや会話をかわすようになる。社会と人生がテレビセットの中にあると思わせるような社会。
 なるほどオーウェル1984年」がこの国にくると、特定できない誰かに見られている、そして自分のプライベートに介入されることは苦にならないのか。なので、オーウェルでは悪夢であったテレスクリーンは、この国のカメラ・アイになるとエンターテインメントの道具になり替わる。その結果、政府よりもマスコミの方が大衆に力を持ち、大衆の意向を反映しながら大衆を操作し、大衆の意向であるかのように政策決定に影響を与える(というか決定権を持つ)。なんとも陰鬱な気分がするのだが、この国ではおかしいと思うことは難しく、大衆は進んで白痴化(当時の流行語)する。
 2つの物語が進行する。
 ひとつは当時(1965年発表)の日韓関係の険悪化を反映した擬似戦争。領海侵犯を繰り返すこの国の漁船に対して報復的な拿捕を繰り返すことが問題になっている。過去の植民地化や朝鮮戦争の記憶があって、交渉は決裂しそうになる。マスコミは外務大臣を脅迫するようにして、彼に道化的演技を要求。急死したあと、漁船に見せかけた攻撃用舟艇を領域付近を航海させ、両国合意の戦闘をテレビ中継する。この国では擬似イベント、エンタテインメントと思われたのが、突如「本物」の戦闘になり、船に乗ったタレント、野球選手、テレビ局員がほぼ全滅する。戦後20年目にして、すでにこの国では戦争の体験が失われ、エンターテインメントになっていた(なるほど同時期に戦争娯楽映画が多数つくられていた)。
 もう一つは、このマスコミによる擬似イベントをプロデュースするものの葛藤。辣腕のテレビ局ディレクターは、市民やタレント志望者に大衆が要求する紋切り型で大げさな表現や演技を高圧的に要求する。その行為が彼の行動性向を決めていたが、あるときカメラ・アイの見ている前でこの指示に従わない若い女性にあう。テレビ局員の特権を使って、彼女に会い、彼女のおかしな(読者からすると自然な)振る舞いに強く影響される。擬似イベントをつくりだす仕事に情熱を失い、ある女子アナの結婚式で起きたハプニングで悪漢を追跡するとき仕事では得られない興奮を見つけるが、それも仕掛けられたイベントであり、彼もまたテレビ局に使われる駒のひとりであった。
 巨大化したマスコミは社会と生活の全体をエンターテインメントにする。それを喜ぶ大衆(それが「48億の妄想」:48億は当時の世界の推計人口)は同時性、迫真性、新奇性、刺激性を求める(ただし、事実そのものは嫌悪。誇張され演出された紋切り型を好む)。なので、できごとのないときはできごとをつくりだしていく。その仕組みが社会や生活(国家や政治でさえも)に浸透しきったとき、人々は仮面芝居をするか、反抗するか、逃げ出すしかない。うしろのふたつはどんずまりしかない。反抗しても、大多数の大衆の圧力は演技を要求し続け、逃げ出そうにも行く先がない。このマスコミ化された、擬似イベントだらけの管理・共生社会は安定しているが、アノマリー(異端者)を産む。でも異端者は「転向」を余儀なくされ、社会から排除される。その点は上記オーウェル作よりも、ハックスリー「すばらしい新世界」ににているだろう。はた目にはディストピア。成員にとってはユートピア
 1965年の長編第1作。短編「東海道戦争」を拡大したものだそうな。歴史的遠近法を使うと、ここにあるいくつかのテーマはこの後なんどもでてくる。戦争では「馬の首風雲録」「虚航船団」「歌と饒舌の戦記」だし、マスコミでは「美藝公」だし、両方を組み合わせた「霊長類南へ」だし、擬似イベントでは「俗物図鑑」だし、「逃げ出す、どこへ?」では「脱走と追跡のサンバ」「虚人たち」だし、主人公・折口に強烈な印象をのこす若い女性・暢子は七瀬シリーズや「文学部唯野教授」のアニマになるだろうし、という具合。いやあ、いろいろな方向に展開・発展させたのだなあ、と作者に脱帽。
 この作家の登場人物は、ときに過剰に雄弁・饒舌であったり、感情を発露させたり、大げさなアクションをすることがあるのだが、それは彼らがカメラ・アイを意識してのことと考えるとうまく説明できる。すなわち、作家の作品は「カメラ・アイ」があることが前提の社会で、それに適応したキャラクターなのである。「世界」から脱出して、どこへとも知れぬどこかへ逃亡したいという欲望を持つキャラクターが時に登場するのは、「カメラ・アイ」の追跡を嫌悪してのことだ。もちろん「カメラ・アイ」は作者の視点であるということも可能。