第81代総理大臣になった村山富市の一代記。
1924年に大分の漁村に生まれる。小学校卒業と同時に東京に奉公。勉強して大学に進学(当時は入学資格にうるさくなかったとみえる)。無料の下宿が社会運動家で薫陶をうける。1944年に招集され、熊本で訓練中に敗戦の報を聞く(すでに訓練兵に渡す鉄砲はないわ、上官は玉音放送をソ連に宣戦布告すると勘違いしたわと、ドタバタ)。大学に復学したが、地元の漁業協同組合民主化のための運動員に誘われる。1947年に結党された日本社会党に入党。以後は専従として地元の社会運動、市民運動に走り回る。
以上の経歴は以下の人たちに重なる。このブログでは取り上げていない新左翼の創始者(黒田寛一、いいだもも、吉本隆明など)と似たような体験をしている。
山口武秀「常東から三里塚へ」(三一新書)
安東仁兵衛「日本共産党私記」(文春文庫)
(逆に言うと、戦後文学者は別のルートで仕事をしていったとみなせる。福永武彦、中村真一郎、加藤周一、山田風太郎など。)
このような組合活動や社会運動に専従して、評判と実績をつむことにより、周囲に推されて1967年に大分県議、1972年に国会議員になる。国会では予算委員会、国会対策委員などを経験。1993年に社会党が選挙で惨敗した後、党の委員長になる。この人はリーダーシップをとるよりも、関係者の意見を聞き調整しながらことを進めていくファシリテータータイプの人。もちろん社会主義者として筋は通す。1994年に第81代内閣総理大臣に就任。561日間の政権を担当した。
(組合や党の専従として下積みし議員になるというキャリアはこの国の政党からは失われ銃ある。そのような経験をせずとも、父や親族の議員の地盤を引き継いで、番頭に選挙対策をさせる二世、三世の議員ばかりになった。あるいはメディア露出が多いので人気(populer)を得た政治経験がない人が議員になったりもする。そのために、議論ができなかったり意見調整をできなかったりする議員が増えてしまった。)
特筆される実績は、8月15日の首相談話(「村山談話」)とアジア平和国民基金、被爆者援護法。ほかに水俣病の解決、沖縄問題(基地縮小)、北朝鮮訪問など。閣僚に「スキャンダルを許さない」と言っていたので、政権担当中は問題を起こさなかった(まあ田中真紀子がいたけど)。この人の信条は「常にアジアの国民とともにアジアの国民に学ぶ」「平和と民主主義を守る」なので、この線は崩さなかった(ただ政権担当にあたって自衛隊容認を発表したので、古い人たちには総すかんになった)。人の話を聞き調整をすることに優れていたので、自民党の議員からも信頼されていた。
不幸だったのは、在任中に阪神大震災とオウム事件が起きたこと。どちらも「想定外」のできごとで、法や官庁の対応が未整備だったので、対応が遅れてしまった。デマもたくさん飛んだ。そして退任した。21世紀になってカルト宗教の支援を受ける自民党が政権を持ち、極右の議員が国会に増えたので、村山政権はデマと嫌がらせの対象になっている。
たとえば「村山談話」がその例。本書にのっている全文からキーワードを抜き出すと、「戦争の語り伝え」「アジア諸国との歴史研究」「植民地支配と侵略」「多大の損害と苦痛」「痛切な反省」「独善的ナショナリズムを排す」「核兵器撤廃」。リベラリズムからするとまっとうな主張。でも、ネトウヨや極右、レイシストは自国の負の歴史に正対することができず、激しく拒否する。いちおう、後の小泉純一郎は「村山談話」を踏襲したが、靖国を参拝した。長い安倍晋三政権は踏襲すると明言しない。この本を読んでため息が出るのは、20世紀の自民党にはまっとうな人がいたのに(後藤田正晴が自衛隊は海外派兵しないと明言しているくらいに)、21世紀には払底してしまったことだ。それだけに村山富市の存在が光る。