odd_hatchの読書ノート

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大江志乃夫「靖国神社」(岩波新書)

 日本の軍事史を専門にする研究者による啓蒙書。1983年初出。戦後、靖国神社を政治家が参拝することはあっても閣僚が参拝することはなかった。それが1975年に三木武夫が現職首相として初めて参拝した。それに対する批判が高まった時期のこと。靖国神社は右翼のほかは関心を持たなかった時代なので、由来や問題などを解説する必要があった。とてもヴィヴィッドな政治問題というわけではなかったので、記述は主に過去のできごとに費やされる。現在の問題は、自衛隊員の合祀が合憲であるか否かという裁判くらいだった。

 靖国神社の歴史はとてもシンプル。1879年に明治政府が作った招魂社が靖国神社に改名される。運営は軍、内務省特高など。敷地の一角を軍関係の団体に貸したり、建物を建てたりし、そこに銃器などを設置した。あきらかに軍事施設だった。1952年に宗教法人に格下げになる。WW2敗戦以前は天皇行幸していた。戦後にA球戦犯を密かに合祀していることが発覚してから天皇やその家族が参拝することはない。
 幕府打倒を進めるにあたり、倒幕を掲げる藩や志士などは新たな国家統合の形式を模索する。国学者の影響があって、天皇の存在がクローズアップされる。明治維新後、すぐに国家神道イデオロギーが作られ、その中心に招魂社のちの靖国神社の役割が大きくなる。通常、神社は一神しか祭らないのに、靖国神社は敗戦時には二百数十万の神を祭るのである。それは天皇家護持のために戦死した兵士を神社の神としたため(通常神道では祟りをもたらす個人を鎮魂するのであるが、天皇体制のために殉じたものを慰霊するのも異例)。神が増え続けるというのは神道の神社では唯一である(という)。奇妙なことに、兵士であっても戦病死(たとえば餓死、マラリアなど)の兵士はしばらくは神に祭られなかった。民間人が作業のため乗っていた軍船が沈没して殉死した場合でも神になることはできない。民間人の戦争被害者は戦後補償で軍人と差をつけられたが、死後も区別される。神になるにあたり当人の意志は把握しないし、遺族の意向も無視される(なので別宗教の遺族が靖国神社から離脱を申し込んでも無視されていた)。
 そのうえ、靖国神社は帝国憲法に規定されていない。せいぜい勅令があるくらい。法による縛りがないのに、閣僚や官僚による運営でいかようにでも指示や命令を変えることができた。というのは、建前では1889年の帝国憲法を立てる法治国家であるが、それよりも法によらない天皇イデオロギーが優先される帝国国家だったから。実際、憲法のできる前から天皇イデオロギーに基づく施策が行われる。なので国民統治では憲法よりも教育勅語軍人勅諭が優先された。その表れが靖国神社の設立であり、そこで行われる各種の儀式である。それは教育と軍事に国家神道、ことに靖国神社イデオロギーが強く使われた。ただ上からの押し付けで、民間の運動がなかったので、靖国神社信仰はあまり定着しなかったらしい。強制されるようになったのは、1930年ころからの15年戦争開始から。国民から兵士を大動員し、銃後の統制を強化するために使われた。(奇妙なのは、国家神道の教義はきわめてあいまいで、教義を書いた本が存在しない。まあ神道では儀式を行い、そこで神を感じることが大事なので、理屈はさほど必要ではない。)
 1983年時点では靖国神社を政治利用するのは遺族会議などであったが、1990年ころから極右が利用するようになった。それは自民党の内部を侵食し、この政党を宗教右派で牛耳るくらいまでに伸長している。彼らの目的は、国体イデオロギーで国家を転覆すること。「転覆」の意味はリンク先を参照。
2020/11/2 加茂利男/大西仁/石田徹/伊藤恭彦「現代政治学 新版」(有斐閣アルマ)-1 2003年
 その場合の靖国神社問題を考えるには本書の内容は古い。

 

 

(本書を読むと、日露戦争で戦功をあげた上級将官がその後数十年にわたって軍政の高官になり、政治家に転身したりしたことがわかる。彼らは日本の軍国主義化に大きな役割を果たしていた。司馬遼太郎坂の上の雲」にはそのような仔細が一切書かれていない。護国の英雄であるという印象で物語を閉じ、その後の功罪を書かないのは意図的であるかと疑ったりした。やはり人物の評価は死ぬまでをみないとダメです。)

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