odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

池田敬正「坂本龍馬」(中公新書) 龍馬は明治維新にかかわっていなかったことが知られていない時期の礼賛本

 初読は高校3年の春。大学受験が終わり、結果発表を待っている間だった。この本を読んだ理由は単純で、受験勉強中に司馬遼太郎竜馬がゆく」を読んでいたから(中学1年以来2回目)。龍馬の生涯を別人による記述で確かめたかったのだ。司馬の小説は1964-67年にかけての新聞連載で、本書の刊行は1965年。司馬の小説と本書で記述される生涯がほぼ同じなのは、当時の歴史研究からみて妥当だったのだろう。ただこちらの新書では人物に関する評が少ないのが、少年には不満だった。
2012/09/25 司馬遼太郎「竜馬がゆく」(文春文庫)
 それから40年以上を経ての再読。

 一体、坂本龍馬は何をしたのか。常に構想はあってもどれも中途半端に終わった人ではないのか。明治維新の思想の方向付けをしたわけでもなく、政治局面を変化させたわけでもない。ビジネスで成功をおさめたわけでもない。人付き合いのよさで幕府から討幕派までの様々な人々の間を行き来し、情報を交換していただけではないのか。龍馬の成果とされるのは、薩長同盟の締結、大政奉還の根回し、船中八策だが、最近の研究ではいずれも別人がリーダーシップを発揮していたことがわかっている。なぜ彼が明治維新の「偉人」であるのかわからない(いや昭和40年代に司馬遼太郎竜馬がゆく」が大ベストセラーになったからだ)。
 黒船が来て外圧が加わる。どうするかには3つのアイデアがあった。幕府機能を強化して開国要求に応じる、倒幕して天皇首班の新政府を作り鎖国を継続する、幕府と諸藩有力者による議会を開き開国要求に応じる。龍馬と勝海舟は3番目のたちば。それには政治的な後ろ盾がないので、主流にはなれない。1と2の政治勢力の間を行き来して、自分らの主張を反映させていく。主張にも政治的にも中庸な(中途半端な)やり方だったので、主流にはなれない。そういう人物。実際、龍馬と勝海舟の主張はどこにも受け入れられず、彼らの見通しのようには進まなかった。
 ではなぜ龍馬に魅了される人々が後を絶たないのか。かつての自分がその一人だったことを思い出すと、
1.家族、藩などの地縁・血縁共同体から介入されない「自由」を得ていたこと、
2.なぜか人に気に入られて特に何もしていないのに、飯に困ることがなく、ビジネスを始める「進取」を実行していたこと、
3.特に何もしていないのに女性にもてて、しかし結婚することもなく独身生活をしていたこと、
とまとめられる。このような他人に介入されない「自由」を得ていた人は昭和の時代にもいることはいたが、努力や面倒や多少の挫折がつきものであったので、ロールモデルにはならない。しかし、歴史の事実を踏まえたフィクションの竜馬はいとも簡単に実現してしまったのだ。しかも理想は実現しないまま、若くして亡くなるという英雄性を持っている。現在に不満を持ちしかし何ごとか成したい気分をもっているものは彼と同一化することで承認欲求をえられる。うまくいけば高い評価を得られ、「偉人」にさえなれるかもしれない。それらも若者が憧れる条件になる(19世紀初頭のバイロンみたいな存在)。日本的なロマン主義が見出した「ヒーロー」なんだね(そういうヒーロー像を作った司馬遼太郎竜馬がゆく」はもういらない)。
 著者は当時35歳。明治維新は勤労民衆による統一国家成立という政治変革要求の成果であるという羽仁五郎(「明治維新史研究」)や井上清(「明治維新」)などに近しい立場にいる。でも明治維新は勤労大衆による政治変革運動ではなかったし、竜馬も勤労大衆には無縁だった。「はじめに」の意気込みは本文の記述によって裏切られる。本書には当時の政治や経済の状況、国際情勢などが書かれていない。そのために個々の行動の意味が浮かび上がらない。かわりに池田屋で、寺田屋でなにがあったか、龍馬は誰に殺されたのかを取り上げる。そのような個人の事績や事件を調べても、歴史を学ぶことにはならない。
(参考エントリー:カー「歴史とは何か」)

odd-hatch.hatenablog.jp

 

<参考記事>
坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった(2022/4/7)

business.nikkei.com