odd_hatchの読書ノート

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アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-2 植民地で起きたヘイトクライム事件の背景。無神論者は地獄行きになる。

2023/08/29 アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-1 植民地で起きたヘイトクライム事件の概要。ムルソーにとって太陽はフランス国家の象徴。 1942年の続き

 このように事件の構造は、フランス人による植民地先住民へのヘイト殺人だ。そのように解釈すると、小説には不可解なところがまったくない。
 彼ムルソーの動機から過去の経歴から行動性向まで、合理的に説明することが可能だ。大学を中退した植民地の町で、事務員をしている。誰も彼に関心をもたないし、近づくのものとコミュニケーションを取ろうとしない。彼は広い部屋に一人で住まい、世界は空虚とおもっている。他人を愛せないし、自分にも関心がない。いいたいことは何もない。何の希望ももたず、完全に死んでいくことを考えながら(獄舎の中で)生きている。道徳原理がなく魂がないと他人に言われる。国家や社会に見捨てられたと思っていて、自分のことを大した存在だと思わず、他人の命などどうでもいい。ムルソーのアンモラルは、過去に誇れることがなく(大学を中退したし希望する職種に就くことができなかったし)、未来に希望を持っていないから。過去と未来から切断されていて、現在の退廃しかない。社会や世間が過去に蓄積したことや未来に透視することに自分とのかかわりを持てない。反省しないし、諦めていて、今を消費するしかない。そういう人間が自分より弱い立場にいる人に暴力を向けたのだ。
 彼ムルソーの行動はこの国でもよくみられるではないか。「生きていても仕方がないので、他人を殺して、死刑になりたかった」と言って、無差別殺人を犯すものたち。この国のいくつかの事件を思い起こしても、彼等が襲撃するのは女性や子供、老人や病人、障がい者。この国の構造的差別で標的にされる弱者を選んでいる。殺人をしたのも、「うんざり(@ムルソー)」しているだけとしかいうことはない。説明しようにも口にしたい言葉はなく、早く戻って眠りにつきたいだけ。無関心で無感動で無責任な、個性を持たないただの人。凡庸な人が突然社会の脅威になる。カミュの「異邦人」はも帝国主義植民地主義が作り出した構造的差別の帰結を描いたのだ。通常、「異邦人」は不条理や実存の哲学を小説化したとされるが、不条理はここにはない。
ムルソーは国家と社会の「異邦人」になった不条理の被害感情をいうが、もっとも「不条理」な目にあったのは、名無しにされたアラブ人に他ならない。彼の「不条理」はムルソーの考察から除外されている。フランスによる被害者支援の対象にもなっていない。植民地の先住民はいないことにされている。)

(「シーシュポスの神話」に出てくる「不条理」の分析は下のエントリーを参照)

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 むしろおかしなところは裁判のほうにある。裁判官も弁護士も検察も、殺人行為に関する質問を行わず、ムルソーの行動にばかり注目する。母が養老院で死んで葬儀をおこなっても感動を示さないし、翌日に女友達と海水浴に行き、「いかがわしい(判事の告発から)」情事にふけり、コメディ映画で笑い転げることを問題にする。判事に「神を信じるか」「神を愛せるか」に否定で答え、懲戒司祭による告解を拒否することが獄舎内の問題になる。宗教的戒律を破り喪に服さないことの方が社会秩序を乱す罪とみなされるのだ。植民地行政における差別構造があるのだ。
(とはいえ、フランスの植民地で起きたヘイトクライム殺人に裁判所は死刑の判決を下す。これはとても珍しい事例だと思う。通常は、被差別者への犯罪は不起訴になるか裁判になっても無罪になるからだ。「私」ムルソーがフランスの裁判制度と陪審員などをバカにし、社会秩序に従わない態度を示したことへの懲罰のように思う。「異邦人」事件の裁判ではヘイトクライムをさばいていない。)

(追記:以上を書いた後に「シーシュポスの神話」を読んだら、ドン・ファンの不条理が取り上げられていた。ドン・ファンは放蕩と背教のために地獄に送られた。マルソーも放蕩と背教であるので、「異邦人」は20世紀の神なき時代のドン・ファン神話の再話なのだ。罪として地獄に送られるかわりに、死刑になる。作者の意図はこちらにありそう。でも俺はモッブ、ダス・マンによるヘイトクライムという解釈のほうが21世紀にはふさわしいと思う。)

 獄中のムルソーは路上にいたときに比べるととても多弁になる。拘束され、現在ですら失わされ、強制的に「地下室@ドストエフスキー」に収容されたので、それしかすることがない。語る対象も自分自身のことしかない。ムルソーヘイトクライムで彼を関心を向けなかった人たちから賞賛を期待していたかもしれない。注目を浴びることで、強い自尊心を満足させることができたかもしれない。でも、彼のアンモラルは帰って憤激を起こし、記事のない時期のマスコミが派手に報道したので大衆の憎悪はムルソーに向かう。いっしょに審理されている父殺しはムルソーの犯罪のセンセーションに隠れてしまう。彼を模倣する犯罪は起こらず、支持者も現れない。獄吏も司祭もムルソーを理解しようとせず、嘲笑する。そうするとムルソーの憎悪はすべての人間に向かい、嘲りのうちに死ぬことを望むのである(死にざまにはアンチキリストのイメージが投影されていそうだ。彼は死によって人間を越えたいのだろう)。
 カミュ自身はアラブ人差別をするような人ではないと思う(思いたい)。彼マルソーはカミュ自身のことではないだろう。カミュの意図はもちろん「不条理の哲学」にあるのだろうが、当時のフランス社会の制約を受けて、構造的な差別の中にいる人のレイシズムをみごとに摘出していた。構造的な差別はとても内面化していて、意識されない。大方の読者もそう(なので、ムルソーの行動や性向に「不条理」や気候の影響などをみようとして読解を誤る)。カミュの「哲学」はわきにおいて、植民地で起きたヘイトクライム事件として読むことが「異邦人」の21世紀の可能性を見出すことになるだろう。

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 ちょっとブッキッシュなこと。死刑囚が獄舎で自分の事件を述懐するのは、ユゴー「死刑囚最後の日」のパスティーシュ。19世紀の犯罪者は自分の死をひどく恐れたが、20世紀のムルソーは死ぬことを恐れない。
ヴィクトル・ユゴー「死刑囚最後の日」(岩波文庫)
 同時代のフランス本土でも獄舎につながれた囚人がいた。
2011/08/17 ジャン・ポール・サルトル「壁」(人文書院)1937年
ジョルジュ・シムノン「雪は汚れていた」(ハヤカワ文庫)1948年。
 それは東欧にも。
ユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」(青木文庫)
 戦時中に敵国に捕らえられた囚人は目前の死を考える。モッブのように自分の生と死を無意味なものとは思わない。
 カミュが本書で造形した類型は、すでに1860年代にドスト氏が「地下室の手記」「罪と罰」「悪霊」で発見していた。このあとにアーレントが「全体主義の起源」でモッブで説明していた。ハイデガーのダス・マンもムルソーの分析に使える概念だろう。彼らの分析はそれぞれのエントリーを参照。
 1930年代にムルソーは大学を中退している一方、パリの大学ではサルトルボーヴォワールメルロ=ポンティポール・ニザンなどが哲学談義をしていた。カミュはこの時期高校教師をしていたので、パリのエリートには複雑な感情を持っていたのかもと妄想。