odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」(新潮文庫)-1 自意識過剰でフラフラしている青年が不満をぶちまけた哲学風な独り言

 アルベール・カミュくん(1913年生まれ)が20代の後半に書いた哲学風エッセイ。同じ年齢で読んだら感動しただろうが、初老で読むとその稚気がほほえましく、性急さに落ち着けよと言いたくなり、「ぼくが、ぼくは、ぼくの、ぼくを」が頻出する語り口にそういう文体でしか書けない時期があったなあと懐かしく感じる。フッサールヤスパースキルケゴールの話題が出てくるので哲学風といったのだが、やはりこれは自意識過剰でフラフラしている青年の独り言なのだ。その点で、ポール・ニザン「アデン・アラビア」1931年に並べる書だ。このときポール・ニザン26歳。

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 1942年に最初の版がでたので、フランスの半分はナチに占領されていて、レジスタンスに参加する若者もたくさんいたのだろうが、ここにはでてこない。アルベールくんは「不条理」を考えるのだが、それこそサルトル「壁」のような状況こそ俎上にあがってもいいのに。当時教師をしていたアルジェリアの地では、動員体制はなかったのか。そんな言いがかりをつけたくなってしまう。


 というのは、すでに哲学から離れてしまった俺は政治学や政治哲学の言葉や概念で考えるようになっているから。そうすると、アルベールくんが考える「不条理」はとてもあいまい。訳者の言葉を使えば、「理性で割り切れない」と「明晰を求める死にものぐるいの願望」が「相対峙した状態」。筋が通らなくて状態であり、そのような状態に押し込められていること、らしい。これをフランス人のアルベールくんは想像上のありかた、ある種の極限状態のように考える。その結果、「不条理」の心理や想像力はアルベールくんのようなセンシティブな人には共通にみられるのだ。たとえば、不自由、傲慢、理性の限界、生の意味、死、未来に向かっての無関心、など。とくに「不条理」は神のない罪であるともいう(ここは日本人にはわかりにくい。西洋では神を持つことはアイデンティティであり、徳や倫理の根源であり、国家の保護を受ける要件であった。神がない/信じないと明言することは共同体や国家から放逐されることを意味するようだ。その認識があるから、イワン@「カラマーゾフの兄弟」が神がないと信じることができれば人は神になって何でも許されると主張するに至るのだ)。
 この言い分に納得できないのは、「理性で割り切れない」と「明晰を求める死にものぐるいの願望」が相対峙する不条理な事態は、マイノリティには日常茶飯事であるからだ。人権を無視されている難民や無国籍者はいつでも警察の職務質問にあい、パスポートを取り上げられ強制送還される可能性があり、安い給与を押し付けられピンハネされる。突然マジョリティの暴力を受け、時に白人や警察にリンチされ殺されてしまう。女性と性的マイノリティは男からのハラスメントを受け、入学や就職で理由なく不合格になり、望まない妊娠の後処理を押し付けられる。どれも不法行為であるのに、司法や行政は動かず、差別やハラスメントの加害者を保護し、被害者が不利益を被る。全体主義国家や権威主義国家では体制に反対するものは人知れず逮捕され収容所送りになり、裁判なしで死刑になる。法が働かない社会では、不合理を告発するだけで社会的生物的に抹殺される可能性があるのだ。これこそ「不条理」そのもの(アルベールくんの想定に照らしても明らか)だ。
 「不条理」は、権力を持たないものが法や行政によって保護されず人種などの差別が認められている国家で容易に起こる。帝国主義全体主義の官僚制は、政治・法律・公的法的決定に代わって行政・政令・匿名の処分による支配。なので一担当者の意思でどのような措置も可能になり、人体・人格・人権の危害が起きても権力が正当化してしまう。抗議しても誰も動かず、抗議そのものが犯罪とされてしまう。
 ナチス占領下のパリでは「不条理」がどこにでもあったはずなのに、アルベールくんは見ない。哲学書と文学を読みふけり、自意識と自尊心の強さを持てあます。アルベールくんの問題は、この世を〈この私〉自我と世界に二分していて、〈この私〉が間違っているか世界が間違っているかの二分法で物事をとらえていること。途中に無数にある社会や集団、共同体などをみない。上に登場するハイデガーヤスパースキルケゴール等も同じように考えているので、アルベールくんは彼らの考えに引っ張られたのかな。それでも、アルジェリアの街にいるはずの「アラブ人」や女性の存在を見えないのは問題だ。
 こういう現実を見ないで抽象性だけの世界で物事を見ているのは、同じころに書かれた「異邦人」でも同じ。語り手マルソーは、女性をもの扱いした(セフレの女性と遊んだり交合したり、母親の死に無関心であったり)。それに神を信じない。

「(判事は)私が神を信ずるか、と尋ねた。私は信じないと答えた(「異邦人」新潮文庫、P87)」

 本書でアルベールくんは不条理な人間としてドン・ファンを検討する。ドン・ファンの不条理は放蕩と背教に見られるというから、マルソーというキャラはドン・ファンの性格を模しているのだね。語り手ムルソーは「アラブ人」の個性や人権を顧みないで、いきなりピストルで射殺した。ドン・ファンは亡霊によって地獄送りになったが、20世紀の神のいない世界では地獄もないので、死刑で罰せられなければならない。
(「異邦人」はなんともへんてこな小説で「罪と罰」概念がおかしいとおもっていたが、この小説は20世紀のドン・ファン伝説だったわけだ。新潮文庫の解説でこのことに触れていないのは重大な欠点だと思う。最近の翻訳と解説でどうなっているかは知らない。)

 

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2023/08/24 アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」(新潮文庫)-2 近代ヨーロッパに現れたある種の人たちが感じる自己肯定感の欠如 1942年に続く