odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」(新潮文庫) 運命の操り人形だったマクベスは魔女の予言にうらをかかれ、「女から生まれた人間」ではないマクダフを前にしたとき、一気に主体が覚醒する

 ご他聞にもれず、20代の初読時は、反乱を最後まで遂行できないマクベスをふがいないと断じたのであった。魔女の予言を真に受けて、夫人の使嗾にのっかっただけの機会主義者はその程度の覚悟か、と。「マクベス」を翻案した黒澤明の映画「蜘蛛巣城」にもさほど感心しなかったのがあって、ヴェルディの歌劇「マクベス」も「オテロ」ほどの関心を持てず、ずっとどうでもよいと思っていた。


 それから数十年後の再読。前言撤回、これは畢生の傑作
 スコットランド王ダンカンに仕えるマクベスは、戦いのあと霧に巻き込まれ、深い森の奥で三人の魔女に遭遇する。魔女はマクベスがコーダの領主になり、次の王だと祝う。その言葉はダンカンに忠誠を尽くすことだけを考えてきたマクベスに深く突き刺さる。事実、帰還後にマクベスはコーダの領主に取り立てられたのだった。次の予言も成就するかも。祝宴の後マクベスはテーブルの上に置かれた短剣の幻影をみる。そのとたんに「それ」がやってきた。マクベスはことを起こす。マクベスの独り言を聞いたダンカンの息子と家来はイングランドに逃亡した。その後、マクベスには怪異が起こり続ける。城の鳥が怪しく鳴き、ダンカンの亡霊が現れる。マクベスは取り乱し、猜疑し、盟友バンクォーも殺してしまう。忠臣マクベスに仕えるものは、城内で起こる怪異と忠勇の士の死、いずれイングランド軍の応援で復讐に来るマルコムらに怯える。マクベスは三人の魔女に未来を占ってもらうが、現実にありえないような条件(バーナムの森が動かないかぎり城はもつ、女から生まれた人間にはマクベスは殺せない)に安心する。復讐の軍に用意を始めるが、マクベスの思い通りにはいかない。悶々とするマクベス・・・。
 暴君などのテーマでたくさん評論が書かれている(はず)。そこに加えることなどないので、いくつかをメモ程度に。

・魔女の予言を聞いてマクベスは動揺するが、決心が最初に訪れるのは夫人のほう。彼女の機会主義、陰謀好きがどこから来るのかは置いておくとして、マクベスを使嗾する言葉は時と所が自然に向こうからやってきたのに勇気を出さないのは男らしくないということ。男の沽券・プライドを刺激することが最も効果的であるとおのずと知っていたのだ。(夫人はマクベスより先にダンカン殺しをしようとしたが、寝顔が父に似ているために断念している。そのときにこの策謀を思いついたのだろう。機会に乗じるだけで短慮なところはイアーゴ(@オセロ)そっくり。)

・逡巡するマクベスの前に現れたのは短剣(夫人が用意したものとのちに知れる/マクベスが見た幻影である)、突如鳴り響く鐘の音(犯行の騒ぎを消音する)。ひとつの予言が当たった後に、この二つの自然な使嗾が現れることでマクベスは実行する。この時、すでにマクベスのなかは空っぽで、どこの指令とも知れぬ「運命」に翻弄されるロボットになっていた。マクベスには王になって何をするというヴィジョンはなかった。格好をつけてあたりを睥睨することにも興味はなかった。現実の政治で正義や悪をやろうという気はない。ただ、人を殺すという観念から逃げ出すことが重要だったのだ。

・なので犯行のすぐあとに、マクベス

「アーメンがいえなくなる」「眠りを殺してしまった」「世界が本当でなくなった」。

世界は手を汚してしまったマクベスから意味と平安を奪ってしまったのだ。
(同じように亡霊からの命令で殺人を行うことになるハムレットマクベスは対比される。ハムレットの悲劇は殺人に向かうまでであり、マクベスの悲劇は殺人を起こしてから。世界がハムレットから意味をはく奪するのはハムレットが決意してからで、世界がマクベスから意味をはく奪するのはマクベスがそれを起こしてから。)
・三人の魔女がやることはほんの少し先の未来を人間に吹き込むことだけ。具体的な命令をしないところが狡猾(ハムレットの亡霊は強い命令を下した)。だから、

「結果を言葉通りに守りながら、最後にはまんまと裏をかく(マクベス)」

 亡霊界の悪知恵に人間の理性は通用しない(19世紀から20世紀半ばころまで流行る「悪魔との取引」テーマの一番早い例だろう。人間が裏をかこうと狡猾な手を考えても、悪魔は言葉通りにするが人間が損をするような解決をもってくる)。

・奇妙なことに、マクベスは魔女の予言にうらをかかれ、「女から生まれた人間」ではないマクダフを前にしたとき、一気に主体が覚醒する。それまでは魔女の予言を成就することが目的であったのが、絶望と必死を前にして武人としての「主体」が生まれる。

・なので、夫人の死を知った時のマクベスの長セリフ「人の生涯は動き回る影にすぎぬ」、そのあとの「この世の秩序がめちゃくちゃになってしまえばよい」、はさほど感銘を受けない。むしろ魔女の予言がすべてあたり、思惑を裏切られ、長い間の囚われが消えてからの、

「これが最後の運試しだ。このとおり頼みの楯も投げすてる、打ってこい、マクダフ、途中で『待て』と弱音を吐いたら地獄落ちだぞ」

という覚悟が重要。主体を取り戻したマクベスは人生を斜に見たり、冷笑するのを止め、自分で決断する。影におびえることの無くなったマクベスはそのことで英雄性を取り戻す。

(「マクベス」を翻案した黒澤明蜘蛛巣城」がいまひとつ記憶に残らないのは、マクベスがマクダフと一騎打ちをしないことと、この「改心」が描かれないためだった。本書を読んでわかった。)

 

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 マクベスのセリフでもっとも有名な「きれいはきたない、きたないはきれい」は原文ではFair is foul, and foul is fair. 「きれい」「汚い」を訳語にしたのは坪内逍遥以来という。その結果、「きれい」「きたない」を清潔や論理矛盾の問題に読むようにする例が出るようになった。
 フェアとファウルの解釈は柄谷行人「マクベス論(@意味という病)」を参照のこと。自分としては「公平」vs「不正」、「正当」vs「反則」、「有効」vs「無効」のダブルミーニングを含意していると読む。
〈参考エントリー〉

odd-hatch.hatenablog.jp