2024/11/26 フョードル・ドストエフスキー「白痴 下」(新潮文庫)第3編1-4 天使人間ムイシュキンに魅了された二人の娘は愛情と嫉妬と憎悪に分裂する。 1868年の続き
第3編の中盤は、18歳の少年イポリートが大活躍。身体を動かすことは苦手だから、言葉を使いまくる。イポリートはムイシュキンのネガにあたるキャラ。彼の言動はムイシュキンを照らすことになる。
5 ・・・ イポリートが目を覚まし、紙包みを開いて前日に書き上げ推敲していない原稿を読みだす。タイトルは「わが必要欠くべからざる弁明」、サブタイトルはドイツ語で「我が亡き後に洪水よ来たれ」。
(イポリートは18歳。だから15歳のコーリャと気が合うのだね。内容は肺病で余命2週間と聞いているものによる心情の吐露。死刑を宣告されている人間であるが、何としても生きたい、堕落した生を生きている愚民には我慢ならない。これをいかにもティーンエイジャーが書いたような独我論と中二病の文体にするドスト氏の技術はすごい。)
6 ・・・ 引き続き余命二週間を宣告されている18歳の少年の話。体調が良いとき街を歩いていたら、財布を落とした人がいた。家まで追いかけて渡したら、元医師の男は仕事を失い子供が生まれてにっちもさっちもいかない。イポリートは嫌いな元級友を訪ね、元医師の勤務先を統括している彼の父に口利きを頼んだ。自分の利益にならない行為にイポリートは生の意義をみいだす。嫌いな奴のところに頭を下げるのは難しくはなかったが、あるときロゴージンがイポリートの部屋の前で二時間もたっているという気持ち悪いできごとがあった。
(イポリートの「善行」は黒澤明の「生きる」に関連があるのかなあ。)
7 ・・・ イポリートの原稿朗読はさらに続く。自分はピストルを持っているので自殺しよう。そのさいに住人ばかり殺していたら、社会は余命二週間の犯罪者を裁くことができるか。余命が宣告されているものは余所者であり除け者。この世はあやまちだらけだから犯罪者を裁くことはできない。でも自分は自由意志で自殺することができる。それを実行しようと思う。朗読が終わったら、一瞬しんとしたが、直ぐに爆笑と嘲りがおきた。顔面蒼白のイポリートはムイシュキンに「本当の人間に別れを告げる」という。その直後に隠し持ったピストルをこめかみにむけて発射。雷管を入れ忘れていたために不発。それがわかると一同爆笑。イポリート「永久の恥辱を受けた」。ムイシュキンは街に出て早朝の風景を眺めるが、心は落ち着かない。世界は美しいのに自分は無縁だから。ベンチで寝ていると奇怪な夢を見る。目が覚めるとアグラーヤが手を握って笑っていた。
(十人殺したら云々のところは1章にでてきた後悔しないが犯罪者であることを知っている監獄収容者の話に対応。ムイシュキンは他人に聞いたことを話し、イポリートは当事者である犯罪者として話す。自由意志による自殺は次作「悪霊」でうっとうしいキリーロフの考えとして登場。イポリートは社会を憎んでいるが神は憎んでいない。自由意志による自殺は神の掟に対する踏み越え。キリーロフは神を超えられるかに呻吟する。ラスコーリニコフは生に愛されているから自殺できなかったので、生から見放されているイポリートで自殺の可能性を追求した。他人の嘲笑と爆笑に耐えられず恥辱を受けたと感想を漏らすイポリートは、ソーニャに出会っていないラスコーリニコフに相似。自殺することより十人殺すことより他人に笑われることのほうがショックが大きいという倒錯。)
(イポリートはこめかみにピストルの銃口をあてて引き金を絞る一瞬の間に、「一瞬が至高の調和」「時を超越する」「祈りの気持ちに似た法悦」で、「この一瞬のためなら全生涯を投げ出してもいい」を感じたかしら。イポリートが直後に「永久の恥辱を受けた」というのは、至高体験を経験し損ねたせいかもしれない。イポリートも「神と人間の掟を踏み越える(@ラスコーリニコフ)」ことを目指したが、偶然によって/みずからの手抜かりで失敗してしまった。一方、ムイシュキンは絶対に自殺しない。自殺する感情も理論も持っていない。暴力による他者危害は絶対に行わないのだ。何度か殴られているがムイシュキンは対抗しない。)
(これから自殺するといっている人に「狂言自殺だろ」と嘲笑するのは適切な対応とはおもえない。でも適切な対処はなにかはわからない。ここはドスト氏の論理の枠組みで考えるのはよくない。)
(「自殺」は「罪と罰」以降のドスト氏の重大テーマ。「罪と罰」のスヴィドリガイロフのほか、「悪霊(1871)」「宣告(1876.10)「おかしな人間の夢(1877.4)」などで自殺する人の志向が考察される。)
8 ・・・ アグラーヤがいたのは手紙に書いた約束のため。イポリートの件を聞くと、自分に手紙を読んでもらいたいので、自殺したのだろうと冷静な判断(20歳の娘で男と付き合ったことはほぼないのに)。ムイシュキンを呼び出したのは自分の計画を聞いてほしいため。家を飛び出したい、外国に行きたい、教育事業をやりたい、人の役に立ちたい。でも一番の主張は自分を子ども扱いしないで。この気持ちを打ち明けられるのは正直で正しいムイシュキンだけ。アグラーヤはムイシュキンがナスターシャと結婚するのを望んでいる。しかしムイシュキンは否定。彼が言うには、ナスターシャは自分のことを世界中で誰よりも堕落して一番罪深い人間と深く信じ切っている、言われない辱められたと自覚している。そんな彼女はロゴージンと一緒にいても不幸になるだけ。アグラーヤが「ナスターシャはムイシュキンを愛している。あなたもそう」というと、ムイシュキンは彼女は自分を嘲笑した、いっしょにはなれない」という。ナスターシャは以前からアグラーヤに手紙を頻繁に出していて、アグラーヤにムイシュキンと結婚するよう勧めていた。そんな手紙を送るなら、父に頼んでナスターシャを監獄に入れると大声を出す。そこにリザヴェータ夫人が来て何の話と口を出す。アグラーヤは母に「ガブリーラと結婚する」。
(ここは野暮天の俺にはよくわからない章。ムイシュキンの「正直で正しい」精神は人が思ってもみないことを見出し、思うままにしゃべる。そこには悪意や嘲りがないので、あるいは他人を利用する目的がないので、ことばが他人を傷つけることはない。イポリートの言葉は承認欲求の塊なので、それを聞いた人は反発する。)
9 ・・・ ほぼ徹夜のムイシュキンは自宅で仮眠を取ろうとするが、コーリャが来て「昨日のイポリートの弁明はスゴイ、とくに神の摂理と来世のところ」と息を弾ませてくるし、レーベジェフはコートに入れておいた400ルーブルが盗まれた、下手人は下宿人の一人に違いないと息巻く。
(イポリートの弁明では、ロゴージンの家にあったホルバインの「十字架から降ろされるキリスト」の模写絵をぼろくそに批評するところがあった。コーリャの関心事とあわせると、イポリートは無神論者。ロシアに無神論を口にするのは極めて珍しい、というか仲間外れにされかねない、のでコーリャが興奮しているのだね。だから弁明を聞いた大人たちはイポリートに冷ややかだったのだ。俺はぼんくらだな、指摘されてようやくわかった。)
(レーベジェフが金にしつこいのは、下手人を公衆の面前で罵倒して辱めたいという欲望があるから。)
10 ・・・ アグラーヤと会った緑色のベンチに腰掛け、3通の手紙を読む。そこにはナスターシャがアグラーヤにあてて自分は卑しいもので崇拝している、アグラーヤとムイシュキンを結婚させたい、自分はロゴージンを殺したいがそのまえに先に殺されてしまうだろう、などと書かれていた。不意に木陰から人が飛び出し、ムイシュキンの前に膝まづき、「あしたここを発つ、もうムイシュキンにはお目にかかれない、これが最後」といって姿を消した(こういう光景を7章で夢見ていた)。ロゴージンが現れ、あいつの言いつけでここに連れてきた、俺もここを発つと「憎々しげに笑って、振り返りもせずに行ってしまった」。
ナスターシャも嫉妬の人。子供のころにハラスメントを受けて自己評価を低くされていたのを思春期以降に克服しようと強い意志の仮面をつけて他人に接してきた。仮面は自己防衛の役には立ったが、その裏で自己評価の低さは変わらないので、大人になってから知った天真爛漫で自己実現をしているような人々がうらやましい。その対象になったのが年若のアグラーヤ。アグラーヤは良家のお嬢さんで高飛車な態度や辛辣な口調は自然とできたもの。そういう彼女がナスターシャにはうらやましい。
そうすると、ナスターシャの欲望はうらやましい存在が愛している男を奪ってしまおうというものになる。最初に会った時からナスターシャはムイシュキンに関心を持っているので、悪い話ではない。でも、ムイシュキンへの愛はガブリーラやロゴージンのプロポーズを断るための一時的な方便なのかもしれない。こういう分裂がナスターシャにあるので、彼女の行動ははた目には気まぐれで支離滅裂にみえてしまう。
アグラーヤも嫉妬の人。彼女の「愛」は三角関係をもとめてナスターシャに対抗したかのよう。ムイシュキンとナスターシャが仲良くなればムイシュキンにちょっかいを出し、ナスターシャがムイシュキンをないがしろにするとムイシュキンに飽きる。ムイシュキンを独占しそうになると、その状態から逃げる。ライバルに勝つこと、優越することが目的。
ムイシュキンとナスターシャとアグラーヤは永遠に終わらない三角関係を続けるのがよかったのかも。高橋留美子の漫画「うる星やつら」のように。遠くにいるナスターシャがアグラーヤに文通していたころがもっとも平穏な時期。。でも時は過ぎ誰かを決断しなければならなくなると、狼狽し困惑してしまう。そして相手を傷つけ自分も被害を受ける最悪のやり方を選択してしまう。
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2024/11/22 フョードル・ドストエフスキー「白痴 下」(新潮文庫)第4編1-7 女好き、神がかり、金儲けの欲望を持たない天使人間が結婚することになり、世界が混乱する。 1868年に続く