ではどうするか。ここからエピソード以降のラスコーリニコフを空想する。
ラスコーリニコフはきまじめで、几帳面で、強いこだわりを持っていて、観念が大好きで、空想家・夢想家で、弁が立つ。強い自尊心と自意識があって、他人を蔑み、冷笑する。この行動性向が周囲との違和感になる(これは「地下室の手記」の語り手と同じ。この行動性向がモッブ@アーレントと同じであり、全体主義に傾倒しやすいのは、すでに検討済なので繰り返さない。「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)の感想)。なので、他人から異論を受けたり、批判されたり、嘲られたり、笑われたりすると、すぐに激高して威嚇や恫喝を行ってしまう。
ラスコーリニコフの分身ともいえるスヴィドリガイロフは苦しみを受け入れることができた。嘲られたり、見下されたりしても、動じないふてぶてしさと図々しさをもっていた。ときに自虐の笑いに変えたりもできた。強い自尊心や自意識を嘲笑するようなニヒリストなので、苦しみをそのように捕えない技術をもっていた。スヴィドリガイロフのように性格をかえれば、ラスコーリニコフは苦しみを受容できる。それがソーニャを愛することによって実現した。このあと囚人と仲良くなれたのだ。
(別の見方をすると、ソーニャが常にラスコーリニコフのそばにいて、他人への共感や自己犠牲をいとわないので誰から(とくに貧乏人など虐げられ辱められた人びと)も愛されるソーニャが他人とのコミュニケーションを担当することで、ラスコーリニコフの問題は回避されるともいえる。)
(亀山郁夫は「罪と罰ノート」平凡社新書で、ラスコーリニコフの屋根裏部屋の思想は「地下室」の思想とは異なるといっている。俺が解釈しなおせば、「地下室」のモッブの思想に基づいてラスコーリニコフは全体主義運動を開始したのだと考える。ひとりで考えていたことを実現するために大衆や全人類を扇動するようになった。「地下室」と「屋根裏部屋」には連続性があって、断絶はない。)
さらに行うことは、彼の選民思想に基づく理論と観念をもっと先鋭化すること。神がいない、自意識を捨てられない「地下室」の思考を実践する方法をさらに極めることが必要になる。それは借り物の西洋思想に変わる土着の思想で構想されることになるだろう。「自由・平等・博愛(同胞愛)」はロシアの大地に根を張っていない。となると、別の観念を持ち込むことになるだろう(そこにナショナリズムや外国人排外主義、レイシズムが入り込む原因になる)。また単独で実行することで「踏み越え」や「苦しみを受ける」ことに個人が持ちコア得られなかった。そこで、考える人と実行する人を分ける。観念を共有する集団を作り強固な絆をもつ組織にする。そのリーダーになるのがラスコーリニコフだ。この方法はのちの長編で検討される。「悪霊」ではスタブローギンが考える人で、ピョートルやキリーロフ、シャートフらが動く人だ。書かれなかった「カラマーゾフの兄弟」第2部ではアリョーシャが考える人でコーリャが動く人だ。そこでは考える人と動く人の間で葛藤や摩擦が起きたが、とりあえずラスコーリニコフが監獄で考えている間は明確にならないので、今は置いておく。
そこまで考えても、ラスコーリニコフは民衆に嫌われるのだ。ふるまいが、みためが、存在自体が不快に思われてしまう。個人でやっているうちは気にならないが、集団化・組織化するときは障害になる。そのうまい解決があった。ソーニャを組織のシンボルにして、彼女を運動の先頭に立たせ、ラスコーリニコフは黒幕になればよい。彼に取り憑いた思想や観念を他者に伝えて、「旋毛虫」や「悪霊」のように取り憑かせていけばよい。この構想は「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」第2部で実行されるだろう。
(ラスコーリニコフが他人に嫌われるのは、彼が他人を手段とみているから。アリョーナ、ラズミーヒン、火薬中尉などをそうみている。あるいは敵とみている。ポルフィーリィ、ルージン、スヴィドリガイロフ。あるいは見下した憐憫の対象とみている。マルメラードフ、街ですれ違った娼婦など。ラスコーリニコフは対等な人間関係を作れない。選民思想による強い自意識と低い自己評価の帰結。モッブ@アーレントはそうしたもの。)
(集団化・組織化に向かうのは、「新しい人間」になるための3つの実践、1.家族の禁止=人と神を愛することの禁止、2.定職の禁止、3.貨幣所有の禁止、に潜むトレードオフや矛盾を回避できる可能性があるからだ。この実践を行う共同体をつくり、資金調達部門とそれ以外をわければよい。このやり方は多くの宗教教団、社会革命を目指す秘密結社などで行われてきた。
すると、監獄にいる残り7年はこの構想を実験する機会になる。充実した7年になるだろう。囚人の中に秘密結社をつくり、収監を終えたら、ペテルブルクに戻るのだ。ばらばらに出獄したものたちがペテルブルク=人工的な都市=地獄に集まる。(ということを妄想したが、亀山郁夫「罪と罰ノート」平凡社新書によると、当時のロシアの刑法では殺人犯のラスコーリニコフはペテルブルクに帰還することはできず、出獄後は監獄の周辺の町に暮らすことになるとのこと。また自首-判決の5年後にはラズミーヒンとドゥーニャの夫婦もソーニャに合流することになる。彼らの出版社で、秘密文書を印刷することができそう。)
(その先をさらに妄想すると、「罪と罰」は単独の社会革命を志すラスコーリニコフが挫折し組織化を試みるところで終わったが、「悪霊」で組織化された社会革命の挫折を描き、それでは社会変革の可能性が潰えるので「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャの愛の共同体による変革を構想したのではないか。でも構想の身で終わった「カラマーゾフの兄弟」第2部では皇帝暗殺に向かいナロードニキのように壊滅するのであった。そしてラスコーリニコフの構想はレーニンによって実現するとまでは、ドスト氏も予想できなかったに違いない。「地下室の手記」で始まった「地下室」「屋根裏」の思想はどこまでも進展し、潰しても消えない執拗な暗さと長い射程を持っていた。この思想はモッブや大衆、群集の発生から全体主義運動と対応しているから、現実の動きに応じていかようにでも変形し、一人の人間では人生の間にすべてを経験することができないせいだ。)
というように、「罪と罰」を自意識や自由の観点からは読まなかった。選民思想を持った青年が実行にあたって挫折し、社会変革のカルト集団育成の構想を持つようになるまでの物語とみた。そのようにみると、「罪と罰」は「地下室の手記」の続きで、のちの「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」第2部(存在しない)に直接つながる物語になる。
エピソードの最期で、ラスコーリニコフが更生すると書いてあるのを見ても、よかったよかったとはちっともおもわず、怪物の誕生をみるようだった。こんな危険な小説が名作として読まれているのがちょっと信じられない。ラスコーリニコフが21世紀にいるのならば、彼はヘイトクライムを起こしたはずだ。障碍者施設で障がい者を大量殺戮したり、マイノリティ施設を放火したりした日本人マジョリティはラスコーリニコフの精神にとても近い。SNSでネトウヨインフルエンサーになった「地下室の手記」の語り手が憎悪と排外を扇動して、ラスコーリニコフの精神的近親者が犯罪を犯す構図ができるだろう。彼らは人間の根源的存在に肉薄するようなものではない。彼らは今日では「ネトウヨ」「オルトライト」と呼ばれる存在だ。
(こういう読みをしてしまったので、いま最も入手しやすい「罪と罰」論である亀山郁夫「罪と罰ノート」平凡社新書はこの感想を書いてから読んでみたが、エントリーを作りたいほどの指摘はなかったでした。マルメラードフとスヴィドリガイロフの分析にはうなったが、ラスコーリニコフの分析は隔靴痛痒の感。真人間が悪霊に取り憑かれていたのが更生するのがラスコーリニコフという見方は不充分だと思う。それ以外の見方が必要だと思うが、「罪と罰ノート」ではそういう見方はなかった。欠けていたのは、モッブと全体主義運動の視点。自分の読み方が粉砕される指摘があればいいと思っていたが、なかった。プロの読み手相手に傲慢だけど、しかたがない。)(2022年のおれの読み方も観念先行の偏向した解釈だと思う。深く考えずに簡単な答えに飛びついているとも思う。いずれ自分がこんな書付をしたことを後悔するときがあるかと思うが、ともあれ考えたことはテキストに残しておこう。)
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