odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

中村文則「掏摸」(河出文庫) 神による救い、神を中心にした共同体がない時代と場所でドスト氏の「罪と罰」は可能か

 松本健一ドストエフスキーと日本人」(朝日新聞社)は1990年ころで記述を終えているが、21世紀の章を書けば、本書は必ず登場する。キャラにラスコーリニコフのことを度胸がなかったといわせているくらいだから。他にも「罪と罰」とリンクしている、シンクロ率の高そうなシーンが頻発する。「罪と罰」と「掏摸」の大きな違いは、神がいないことだ。神による救い、神を中心にした共同体がない時代と場所で「罪と罰」の主題はいかに変容されるか、そこに着目してみる。
 語り手「僕」は東京を縄張りにする掏摸。彼にはクラドック探偵(@地下鉄サム)のような敵役にして相棒はいない。棲家やなわばりを転々として、友人を作らないで、一人で暮らしている。都市を歩くが孤立化アトム化した存在という点では「地下室」「屋根裏」の人のひとり。彼は意図しなくとも、ラスコーリニコフの試みを反復している。すなわち、家族の禁止、定職の禁止、貨幣所有の禁止を行っている。でもこれはラスコーリニコフのような存在革命の実験をなぞっているのではなく、資本主義が家事などのシャドウワークを商品化したことで孤立化アトム化したものでも、家族や定職を持たなくても暮らしていけるだけにすぎない。なので、「僕」の他人との関係はラスコーリニコフよりももっと希薄。掏摸という職業がら目だったり記憶に残ったりするのは避けないといけない。会話は最小限で、他人の視線は遮断するもの(フォーサイスジャッカルの日」の暗殺者がこういう暮らし)。ときに彼の領域に入ってくるものがいるが、万引き家族の子供にも、育児をネグレクトする母親にも彼らの生活を支えようとはしない。金を施すが、単に自分との関係をなくしてほしいからそうするにすぎない。「屋根裏」にこもっていたラスコーリニコフは他人との関係を作るのに四苦八苦し、ときに犯罪を自白したくなる衝動にかられることがあったが、掏摸の「僕」がそうなることはない。ラスコーリニコフよりももっと存在が希薄で、社会や他人を憎悪していないせいだろう。他人が目的でなく手段でしかなく、蹂躙に嫌悪するのもニヒリズムのせいだ。
 「僕」のところには、虐げられ辱められた女性と子供が現れる。でも、彼らは21世紀のラスコーリニコフには啓示をもたらさない。「僕」をいましめたり、叱る言葉を持っていない。行動や性向も「僕」に発見をもたらさない。というのも「僕」は罪や踏み越えを考えたこともない。掏摸が犯罪であることを知っているが、それは刑法や警察に追及されるからで、世界を救ったり自己回復を目指すような目的や強い自尊心をもっているわけではないからだ。
 そのうえ神もいない。善悪の判断をする基準になる超越的な存在はもはやない(あるとしたら国家や司法制度くらいだが、それくらいは21世紀には簡単に相対化できてしまう)。「僕」の行動を制限するのは暴力だけか。神にかわってより強い暴力を持つ男は次のように宣託する。

「世界の全てを味わえ。お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗から来る感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える。この世界を、異なる視線で眺めることができる。俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、何て可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら! 神、運命にもし人格と感情があるのだとしたら、これは神や運命が感じるものに似てると思わんか? 善人や子供が理不尽に死んでいくこの世界で!」

 

「この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ」

 これは人体・人格・人権の尊厳を守る、他者危害を許さないという民主主義の社会ではありえない極論だ。このようなルールで統制される社会は存在してはならない。被害者を考慮せず、権力を持てば何をしても許される言説が有効な社会はありえない。かつてはナチスソ連共産主義社会などの全体主義社会や植民地支配ではあった。軍事独裁主義でもあった。だからこれは完全に独裁主義や全体主義社会の論理。その権力者の論理は、他人の人体・人格・人権を棄損することができる、積極的に侵害できるものを選抜しようとする。通常の社会で不遇であり不満を抱えた者には魅力的に聞こえるだろう。でも、社会の権力のヒエラルキーの下位にいれば、たんに部品として消耗されるだけ。
 ラスコーリニコフはこの男のようには語らなかったが、彼が作りたい「新しいエルサレム」「蟻塚」はこの男の語るようなものだったのだろう。ドストエフスキーが繰り返して発する問い(万人が幸福に暮らすためにひとりの女の子が虐げられるとして、その社会でよいとするか)に対するもっとも冷酷で「人間ら死」くない答えだ。そのような社会は19-20世紀にあったし、この国も21世紀には全体主義や独裁になってしまう。初出の2009年には杞憂に思えたことが、2023年には現実になりそう。作家の想像力は炭鉱のカナリアのような機能を持つというが、これはそういう小説。
 みかけは悪漢小説(伊藤計劃「虐殺器官」ハヤカワ文庫板倉俊之「蟻地獄」新潮文庫黒川博行「破門」角川文庫)。不法行為と犯罪ばかりで気分が悪くなるが、一皮むけば、観念小説。日本の小説には珍しい。

 

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