米川正夫は20世紀初頭にでたロシア文学翻訳者。最初にロシア文学を翻訳したのは二葉亭四迷らだったが、米川はその次の世代。大正時代にでた最初のドストエフスキー全集の翻訳で活動を開始。戦後には個人訳全集を河出書房から出した。「罪と罰」の新潮文庫は1951年にでて、そこに長い解説を書いた。Wordで16000字強なので、原稿用紙で40枚になる。前掲河出書房版全集の「罪と罰」の巻にも収録された。
(テキスト起こししたものをブログに追加した)
20世紀前半の文学者および日本の読者がどのような興味と感心で「罪と罰」を見たのかを考える素材になる。米川のはかなり長い感想ではあるが、ほとんどは小説の梗概。それにドスト氏の生涯と「罪と罰」連載時の反応が追加されている。こういうのスルーして、「罪と罰」の訳者の見方を抜粋し、おれの感想を記しておこう。カッコは引用。
「ラスコーリニコフも実に極端な(道徳も法律も宗教も、すべていっさいの権威を否定する)徹底個人主義の狂信者だったのである」
別のところでは、ラスコーリニコフは「西欧的個人主義者」とも書いている。でも、ラスコーリニコフは西洋的な考えには嫌悪を持っていた。米山が上のようにみるのは、日本の「道徳も法律も宗教も、すべていっさいの権威を否定する徹底個人主義」は西欧思想に取り憑かれたところから生まれたという考えを投影していると思う。訳者が書いた時期を考えると、この国では「個人主義」を実行しようとすると、すぐに「家」「家父長」の抑圧を受けてしまう。個人を出発点にして考えることが困難だった。そこからすると1860年代に「徹底個人主義の狂信者」であることは自由主義の典型にみえたのだろう。だがおれの見るところでは、道徳も法律も宗教も、すべていっさいの権威を否定するのはコモンや共同体に入ることができないモッブに特有の考えなのだ。根無し草で居場所がないから、社会や国家への憎悪になり、権威をすべて否定する。自由主義・個人主義は個人の自由や主体を尊重するために、社会や国家の秩序や法律などを重視する。米山がそうみないのは、戦前の国家神道に基づく宗教政治や全体主義を生きていたためだろう。全体主義は個人の自由や主体を尊重することは秩序の破壊とみなす。
このあと訳者は第1部第6章の殺人シーンを細かにみて、斧を振り落とすラスコーリニコフの心理を考察する。このような殺人はおよそ凡人には到底なしえない、それを「瀬踏み(訳者の訳語)」するのはとても困難であり強い思想を必要としているという。でもこの百年の殺人犯罪をみれば、行為自体を行うのに理論や思想が必要なわけではない。他人に先導された憎悪や嫌悪があり他人の価値を認めない考えがあれば、人は簡単に機械的に人を殺すことができる。中国で日本軍兵士が行った三光作戦や右翼・新左翼のテロ、障がい者やホームレスへの憎悪に基づくヘイトクライムなどがそれ。人が簡単に殺人に「瀬踏み」する事例は初出の数年前までの戦争でたくさん見聞きしただろうに。
人間性を良心や善悪の判断ということにすれば、ラスコーリニコフは凡人や人間のしがらみを取り除くことに後悔したことはない。暴虐とは思っていない。また内的な道徳規範に人間性が「復讐」されたわけではない。「地下室」や「屋根裏」でひとり考えていたことを社会や世間に行為で公表したら、思いがけない苦痛があって、それに耐えられなかったのだ。他人の複数性に出あって、「抽象的理論」が動揺したのだ。
「こうした孤独地獄の悩みはラスコーリニコフの心中に、誰とでもいいから自分の魂の重石となっている秘密を分ち合いたい、自分の魂を開いて見せたいという、やむにやまれぬ内部要求を感じさせるようになった」
自分のみるところでは「内部要求」というより、他人に対する自尊心や優越感に由来する、言動の端緒は他者との関係の持ち方にある。昭和20~40年代の読み方では、ラスコーリニコフの言動を「自由意志」でみるようだったのかな。
その自尊心の持ち主が、なぜ家族の縁を切ったり、友人たちと会うことを拒んだのか。殺人で盗んだ金に一切手をつけず、一方で手元の金を貧しい人々や虐げられた人びとに惜しげなく施したのはなぜか。それを「個人主義」で解釈できるのか。
(戦前の社会では、自由を実行しようとすると、国家から家までの権力がすぐに介入し、それに雷同するものが抑圧をかけてきた。常に少数が多数に抑圧される構造になってしまう。そうすると社会から積極的に孤立して「地下室」にこもって自由や平等を考えることは日本のインテリに親近感をもったのだろう。でも、おれが思うに自由が実現する場所は公共空間なのであって、「地下室」で孤独に考える「自由」は活動action(@アーレント)のない概念だ。概念をこねくりまわしても、他者の複数性を確認しなかったり活動の実践がなかったりするのは、自由には届かない。)
第6部第8章。ラスコーリニコフは自白するために警察署に向かう。
「ドストエフスキーがこのフィナールで読者に示そうとしたのは、単にラスコーリニコフの内部において、一つの理論が他の理論にとって変ったというような意味の変化ではなく、悔悟と呼ばれる高揚した力づよい心の動きに現われた彼の人間性=良心の発現なのである。しかり、彼はこのときすでに悔悟したのである。方向を誤った意識と傲岸な理論は最後まで彼につきまとって、流刑地においてもなお多くの苦悶をもたらしはしたけれど、根本的の意味における真の悔悟はもう乾草広場で成就されたのである。」
ここで悔悟したと断言できないという読み方がそのあとに起こる。その視点でみると、訳者のみかたでは自首か自殺かという選択肢の重要性は失われている。流刑地での夢や病気の体験が無視される。それよりも、ラスコーリニコフが「悔悟」するということに意味を強くもたせすぎ。おれからすると、ラスコーリニコフは理論を捨てていないし、殺人を後悔・反省していないのだ。
「(ソーニャは)ドストエフスキーのキリスト教的理想を具体化した、謙抑と忍従の権化であり、謙抑と忍従によって強い内部の力を蔵した肯定的タイプとして描かれ、ラスコーリニコフの西欧的個人主義に対してロシヤ国民的思想の体現者という役割を与えられている」。
これもソーニャとラスコーリニコフの関係を単純化していないか。「悔悟」にいたる前に、ラスコーリニコフが彼女や一家に行ったこととの関連も見たほうがいいんじゃない。ラスコーリニコフは街の行きずりの娼婦に金を施したり、男に凌辱されないように手配したりする。彼は弱者に施しをしたが、これを理論との関係は。なぜ行きずりの娼婦たちからは「ロシヤ国民的思想」の影響を受けなかったのか。
(ラスコーリニコフだけでなく、ルージンやスヴィドリガイロフ、マルメラードフなどの男が未成年の少女と結婚したがったり、障害を持つ少女に熱中・執着するところにも注目しないといけない。「謙抑と忍従の権化」は社会や男から強制された性格なのだ。彼女らの聖性はいつも侮辱を受けているので自己防衛のために選択せざるを得なかった、ロシア正教の教義と一致しているので内面化したのだという見方が必要。ラスコーリニコフの自由を検討するのに熱心でも、彼女ら虐げられ辱められた人たちの自由や解放を検討しないのは不充分。)
おれとしては「罪と罰」を個人主義の克服や自由の真剣な検討、法への服従などで読むのは違っていると思う。そうではなくて、近代に入ったばかりのロシアで、だれも見たことも考えたこともない、孤立化アトム化して他人への憎悪を燃やすモッブ@アーレントやダス・マン@ハイデガーを見出し、全体主義運動を扇動する運動家を造形したことが重要。