odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

北村透谷のフョードル・ドストエフスキー「罪と罰」評(1892年) 日本で最初にドストエフスキーに取り憑かれた明治時代の人。

 北村透谷(1868-1894)の「罪と罰」評が青空文庫にあるので、読んでみた。
 透谷が読んだのは1892年にでた内田不知庵(魯庵)訳の第1巻。透谷の文章を見ると、第1部までの翻訳。松本健一ドストエフスキーと日本人」によると、1893年に第2巻がでて中絶。大正のころに改訳を試みたが、1913年に中村白葉の全訳が出たので止めたとのこと。第1部のできごとの説明や展開は第2部以降にでてくるが、透谷(および明治20年代の読者)は読んでいない。そこは留意しておこう。
罪と罰(内田不知庵譯) 1892

www.aozora.gr.jp


罪と罰」の殺人罪 1893

www.aozora.gr.jp


 透谷(当時23歳)は第1巻を2回読むほどに、「罪と罰」に取り憑かれた。読みの中心はなぜ癖漢(へきかん)が殺人を犯したか。透谷は、その理由は書かれていないが(ナポレオン主義ほかの議論は第3部第5章になってから登場するので仕方ない)、殺人にいたる心理描写が「魔力の所業を妙寫(みようしや)したるに於いて存するのみ」と評する。当時でたいくつかの評では、ラスコーリニコフの殺人を「貪慾」「復讐」などに見ようとしているようで、悪人の造形としては動機も行動も弱いというものだったらしい。透谷はこの「儒教」のような勧善懲悪の物語のように読むのではなく、真理の過程が「綿密に精微に畫出」されていることが面白いのだという。まあ和歌や俳句のように完成体を賞味するのではなく、過程をみろということだ。
 透谷が読んだ時代には、江戸の草紙や明治10年代の政治小説がすでにあり、黒岩涙香らが翻案した犯罪小説や探偵小説などがあった。犯罪を描いた小説、読み物は多数あったなかで、ドスト氏(この言い方は透谷がたぶん最初)の「罪と罰」は異彩を放っていて、しかも日本人が親しんでいたものとはとても違っていたということがわかる。 
 個人的には透谷の「罪と罰」評にシェイクスピアマクベスが出てきたのはうれしかった。そう、殺人直前の心理描写として「罪と罰」に比肩できるのはマクベスくらい。あと、透谷が第3章以後のソーニャを見てどういう感想を持ったか想像すると楽しい。透谷は「処女の純潔を論ず」で滝沢馬琴の「八犬伝」に登場する伏姫を語っている。

「処女の純潔を論ず」

www.aozora.gr.jp

「伏姫は因果の運命にその生涯を献じたる者なり。因果は万人に纏ひて悲苦を与ふるものなるに、万人は其繩羅(じようら)を脱すること能はずして、生死の巷に彷徨す、伏姫は自ら進んでこの大運命に一身を諾(ゆだね)たるものなり」

の評は、ほとんどそのままソーニャにあてはまりそうだ。透谷ならキリスト教の慈愛や自己犠牲を正しく理解していそう。
 透谷が注目したのはマルメラードフの愚痴。この酔漢が自分のダメさを自虐しながら、妻を蔑み、娘を娼婦に売ったのを嘆く。そこに露西亜の農民や下層民の貧困や生活の悲惨を見る。これも日本の文芸が主題にしてこなかったこと。社会の貧困や悲惨を描く形式として小説があることに驚いているようだ。なるほどこの衝撃が藤村や花袋、長塚節らの自然派文学、その後のプロレタリア文学や農民文学の礎になったのだろう。
 ドスト氏の読み(1881年59歳で亡くなったので、当時は没後10年)が、透谷から始まったのはよかったと思う。でも、「罪と罰(内田不知庵譯)」にあった露西亜の地理や歴史などのエスニシティがその後の読者の読みから失われ、人類普遍の問題や人間性として読むようになったのはこの国のドストエフスキー受容には禍根を残したが、それは透谷の責任ではない。

(個人的な思い出。高校三年生のときに岩波文庫の「北村透谷選集」を買って、少しずつ読んでいたのだが、言文一致体より前の文体がどうしてもなじめず、難解で、ついに読むのを止めてしまった。それからほぼ40年。黒岩涙香を読んだおかげで、こんどはよくわかりました。対象の「罪と罰」をそれなりに精読したのも役に立ったようだ。とても若くして亡くなった明治の青年で、早熟かつ聡明な人がいたのだなあ。関心が少しわいた。じゃあ、ほかの透谷の文を読むかというと、腕を組んでしまうけど。)
(「よくわかりました」のもうひとつの理由は、文庫ではなく、10インチタブレットで読んだこと。小さな文字から解放され、絵本なみの大きな文字で読めたから。)