odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イタロ・カルヴィーノ「むずかしい愛」(岩波文庫) 大衆社会における恋愛の困難さはコミュニケーションの機会と技術の不足。

 解説を読んでも発刊の経緯はよくわからない。1958年初出の似たようなテーマを集めた短編集。

ある兵士の冒険 ・・・ 汽車に乗っている兵士が豊満な若い女性に愛撫を試みる。言葉のないコミュニケーションを言っているのかもしれないが、行為は痴漢そのものなので論評なし(逆に言うと、当時は痴漢はなかったのか?)

ある悪党の冒険 ・・・ 深夜、泥棒が追いかけられてなじみの娼婦の家に行く。そこには亭主がいて、むりやり起こしてベッドをあけてもらったが、そこに追いかけてきた私服刑事が変わったことはないかい、なければ俺をそこで眠らせてくれといいだす。夜明けまでまだ数時間ある・・・。乾いた笑いのでる犯罪小説(ブラウンやアイリッシュシムノンだともうひとひねりしそう)。

ある海水浴客の冒険 ・・・ 海水浴中にセパレーツの水着が取れてしまった。海から上がれないし、気づいた男はにやにや笑いを浮かべるだけで助けてくれない。そこに地元漁師の老人と子供が船を近づけてきた・・・。女性用のセパレーツの水着は戦前からあったが、ポピュラーになるのは1960年代後半から。という事実からわかるのは、この女性はハイソな階層の人で、ワーカークラスとは無縁に暮らしていること。

ある会社員の冒険 ・・・ とある女性とのアバンチュールの一夜を過ごし、そのまま会社に出勤する。前夜の余韻が残り、想念はしばしば過去に引き戻される。しかし甘美な思いは疲労と眠気で一掃されて・・・。わかるわあ。

ある写真家の冒険 ・・・ カメラに凝った男が写真を撮ることにこだわる。女友達をモデルに頼むが、カメラ越しにしゃべるだけなので、怒って絶交。取り続けた写真の写真を撮り、それを廃棄する写真を撮り・・・。創造と破棄の繰り返しは無為であるのか。それともアートであるのか(そのようなことがあることを知っている人は誰もいない)。

「写された現実は即座に、時の翼にのって駆けぬけた歓喜に染まり、郷愁をまとう。たとえそれが一昨日の写真でも、追悼のにおいがする(P80)」

 バルト「明るい部屋」の指摘と同じ。

ある旅行者の冒険 ・・・ ある会社員。ローマまでの夜行列車で一等のコンパートメント席を買い、ルーティンをして素晴らしい一夜にしようとする。でも深夜便には、旅行客が入ってきて・・・。何も起こらないが、孤独でいられたのはよかったという思い。

ある読者の冒険 ・・・ 避暑に来た読書好き、海辺で厳選してきた本を読んでいる。隣にセパレートの水着美女がいて、いっしょに読もうと誘われ、さらにはタオルを取ってと言われたら裸になっていて、でも読書好きはどこまで本を読んだかが気になって気になって・・・。これもわかるわあ。

ある近視男の冒険 ・・・ 近視男が眼鏡を作って、何もかもよく見るものだから気分が良くなって、故郷に行ってみることにした。でもメガネのフレームのために、誰も彼だと気づかない・・・。エドガー・A・ポー「眼鏡」1844と比較してみよう。

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ある妻の冒険 ・・・ 上流階級の奥さんが若い不倫相手に会おうとしたら部屋にいない。夜明け前の田舎町で時間をつぶせるのはカフェだけ。地元の工員や爺さんたちに囲まれる。階層の異なるところに投げ込まれてとまどう。ルイ・マル死刑台のエレベーター」にでてくるジャンヌ・モローのイタリア版か。

ある夫婦の冒険 ・・・ 共働きの夫婦は働いている時間が正反対。妻が起きるときは亭主が寝るときで、妻が帰宅すると夫は仕事に出ていく。口喧嘩をして、相手のぬくもりが残るベッドに伏す。

ある詩人の冒険 ・・・ 美人と一緒に詩人がデート。美人は一生懸命誘惑するが、詩人は頭の中に沸いてあふれる言葉に気もそぞろ。でも作者?のナラティブで詩人のことばもどこかにいってしまう。

あるスキーヤーの冒険 ・・・ スキーがへたくそな若者たち、とてもうまい女の子に惹かれる。でもスキーでは追いつけない。たまたまリフトで一緒になった。ぎこちない会話。山頂についたら女の子はさっさと行ってしまう。

 

 19世紀はロマンスの文学であって、社会のあらゆる階層のキャラが大恋愛をしたのだ。でも、20世紀になって、大文字の大恋愛はできなくなってしまった。書くことも困難なのだ。そこでカルヴィーノは大恋愛の復活をもくろむのではなく、恋愛が難しい時代の恋愛の諸相をスケッチする。おもには男性視点。
 個々の短編における愛の困難さは別に研究や評論があるからここではそういう言及はしない。気の付くのは、20世紀半ばのイタリアが大衆社会になっていて、個人がアトム化・孤立化していること。ほとんどの語り手は独身とみえ、都市で一人暮らしをしているようだ。アパートの一室にこもっていて、隣と関係をもっていないし、町の行事や政治に関わりを持たない。友人といえば職場の同僚か学生時代の知り合いくらい。なので、コミュニケートの方法を知らない。他人が自分のテリトリーに入ってくるのも困る(電車のコンパートメントや読書の場など)。そこに気をひかれるような美女がいたり、誘惑のサインを送ってきても、気付かなかったり、無視したり。気の利く友人もいないから、サインを教えてくれるわけでもない。なのでその次の展開に進むことができない。大衆社会における恋愛の困難さはコミュニケーションの機会と技術の不足。
(語り手のキャラは比較的裕福な人たちで都会暮らし。なので、1958年にはまだイタリアの田舎に残っている贈与社会や共同体のコミュニケーションに参加するのは苦手。でも彼らの「フランク」さにはあこがれを感じてもいる。こういう複雑な気分が大衆社会の孤立化アトム化した人たちにあるのだね。でも夫婦や恋人などの関係を持っている人は、親密なコミュニケーションを作ることができない。)
(孤立化アトム化した都会の大衆は、「マルコヴァルドさんの四季」にもっと具体的に登場する。)

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 孤立化アトム化した人たちは自分の価値を承認されることが少ないので、自分の価値を低くみるし、他人の価値も同じように低いものとしてしまう。典型的なのは最初の物語の兵士。いつ死んでもいいという気分をもっていると、他人もそうであると思ってしまって、簡単に危害してしまう。これも大衆病理のひとつ。
 あと作者がみつける愛が難しい人の中には、自閉的な人が多い。彼らは世界を自分ひとりで閉じ込めてしまい、心の空虚を埋めるために「もの」に対して愛着をもつ。ときには過剰なほどに。愛着をもった「もの」はそれ自体が世界の価値を決めるから、彼らは「もの」を通してしか他人にアクセスできない。当然それは挫折する。ここではカメラ、メガネ、本などがフェティシズムの対象。
(これは俺の行動性向に近いので、さまりーに「わかるわあ」と書いてしまった。)

 感想はこれくらい。では文庫の解説を読んで、どういうことが描いてあるか見てみよう。

 

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 読んだ。コミュニケーションの不在は指摘しても、その理由である大衆社会や孤立化アトム化した個人という指摘はなし。1995年の解説だから仕方ないか(かわりに、物語の不可能性がどうのこうのという話。)

 

イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」(ハヤカワ文庫)-1 Qfwfq老人(別の訳者ではクフウフクと表記)のホラ話。宇宙的進化論的な超歴史的、非人間的できごとを通俗的な物語に換骨奪胎。

 Qfwfq老人(別の訳者ではクフウフクと表記)のホラ話。科学の記述を聞くと、わしはそこにいたと叫んで、思い出話に花を咲かせる。1965年初出。

月の距離 ・・・ 月の軌道がいまより地球に近かったころ。老人のいた岩礁から月にいくことができた(途中の無重力空間に舞う少女の描写の詩的なこと)。あるとき、老人と奥さんだけが月に取り残されて・・・。状況は科学的に記述されるのに、語られるのは18世紀の海洋ロマンスという齟齬。

昼の誕生 ・・・ まだ星雲ができていないころ、引力でガスが固まりだした。一族が眠っていると、周囲がゴロゴロして目を覚ますし、何もかもずぶずぶと沈んでいき(とはなにか)、遠くで発光して「昼」が始まったのを知る。宇宙開闢を家族旅行のように描く。

宇宙にしるしを ・・・ 銀河の端にある太陽は二億年で一周するというので、老人はしるしをつけておいた。それは宇宙の混沌に変化しない「もの」の最初であったが、宇宙が変化しつづけるのをみるにつけ、いまわしいものになった。さらに時間がたつと、最初のしるしに似たような印がそこらについていき、しるしの意義がなくなっていく・・・。無限と永遠に対する不変・普遍への恐怖。事物と記号の役割の逆転。

ただ一点に ・・・ 宇宙がただ一点に集まっていたとき、みなが点に詰め込まれていた。世間づきあいをさけようにも一点に頑張っていたので逃げられない。一人スパゲティを作るといっていた夫人のことを思い出す。そのあと宇宙は膨張し、あの人を失ってしまった・・・。このwiki記事を見ると、1965年はビッグバンのイメージが人口に膾炙した端緒の年だったようだ。自分の記憶では1970年代にはビッグバンセオリーは常識扱いだった。

ja.wikipedia.org


無色の時代 ・・・ 空気と水のない地球では紫外線が色彩を壊してしまうので、白と黒しかない。老人は岩石や砂漠に変りのあるものを探す。そこに女性アイル(ルは小文字)を見つける。美しい法悦の園。しかし地球が空気と水をたたえるようになると、アイルはいなくなる・・・。若々しい青春の物語がオルフェオ神話に変貌。

終りのないゲーム ・・・ 宇宙が若かった時、アトムを転がすゲームで遊んでいたが、水素原子は自動生成されるので、いつまでも決着がつかない。ついに星雲を作ってレースをすることになる。すると相対性理論の効果で過去の自分が次々と出現し・・・。宇宙の生成が幼児の遊びで語られる妙。

水に生きる叔父 ・・・ 水棲から陸棲に変わろうかというころ、老人は完全陸棲の若い女の子と許嫁になる。でも頑固に水棲を続ける大叔父を説得しないといけない。彼女を紹介しようとすると案の定猛反対。どころか水棲の利便を説く。それを聞く彼女に老人はやきもきして・・・。なるほどこうしてクジラやイルカが生まれたのだ! と叫びたくなるくらいに、進化のできごとをよくある結婚障害話に書き換える。

 

 「ただ一点に」のサマリーに書いたように1950-60年代にかけては宇宙論や進化論の大きな変化が起きた。宇宙論ではビッグバンセオリーが受け入れられ、定常宇宙が否定されて、進化しいずれ終わる宇宙になった。分子生物学セントラルドグマが受け入れられ、生命現象や進化などを物理学や化学の用語で記述できるようになった。
 その時代において、科学と文学はますます間を広げるものだが、小説家カルヴィーノは両者を架橋する。エンタメも科学を紹介することはあるけど、多くの場合はお勉強の発表会。通俗解説書に書かれているような内容をなぞる。あるいは科学的な装いをした疑似科学(フィクションの中に登場していれば無問題)。でもカルヴィーノはどちらもとらない。科学の記述を逸脱しないけれど、そこに文学的なイメージを加える。たとえば、「昼の誕生」で老人一家がガスの集まりに潜り込んで眠っているところ。あるいは「終りのないゲーム」で老人と悪友がそれぞれ自分の作った星雲に乗って、宇宙を駆け巡っているところ(でも水素原子の自動生成は誤りだけどね。いまならダークマターを使うだろう)。このイメージの喚起力がよい。21世紀にはハッブル望遠鏡の微細な宇宙写真をみたり、国際ステーションからの宇宙の眺望を動画で眺めたりできるので、詩的な喚起力は強まっているのではないか。
 そこにカルヴィーノはとても通俗的な物語を加える。宇宙的進化論的な超歴史的、非人間的できごとを市井の人々のルーティンにしてしまったり、ボーイ・ミーツ・ガールの物語に書き換えたり。すでにもう食傷気味の紋切り型の物語が宇宙論や進化論と出会うことによって、新しくなる。

 

  

 

2022/07/15 イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」(ハヤカワ文庫)-2 1966年に続く

イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」(ハヤカワ文庫)-2 Qfwfq老人(別の訳者ではクフウフクと表記)のホラ話。「私」から抜けられないモノローグの文体なのに、自閉的ではない。

2022/07/19 イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」(ハヤカワ文庫)-1 1966年の続き

 

 Qfwfq老人のホラ話。後半。

いくら賭ける? ・・・ 宇宙ができるまえ、何が起こるかを老人は学部長と賭けをする。どんどんエスカレートして地球の歴史のささいなことまでが賭けの対象になって・・・。老人は賭けに勝つために事象を記憶し法則性を見つける。なるほどそこから天文学と力学が始まったのか。(事実、惑星の動きを予測する=賭けに勝つために科学研究が始まった)

恐龍族 ・・・ 恐竜が絶滅して5000万年。最後の一匹となった老人が新生物の群れに入る。異分子として敬遠され、喧嘩に勝って一目置かれるようになり、恐竜(実はサイ)の群れに対抗するリーダーに推挙される。新生物が無邪気なのに、老人は孤独がいや増す。大衆の中に一人いる知的エリートの孤独、みたいな感じ。

空間の形 ・・・ 落下し続ける老人の関心は平行線をたどって同方向に落ちていくウルスラ夫人。しかしフェニモア大尉が恋敵になって、二人にちょっかいを出していく。空間のゆがみに合わせて(もうデカルト的な均質空間の概念はない)彼らは落下するが、並行関係はかわらない。ついに落下は文字の中にまで及び・・・。スターン「トリストラム・シャンディ」のように図形とテキストの差異がなくなる。表音文字のアルファベットに図形を見出し、そこに冒険を持ち込む。

光と年月 ・・・ 一億光年先の星雲に「見タゾ」のプラカードをみつけた。まさに一億年前、思慮に欠けた隠しておきたいことをしでかしていたのだ。そこで「ソレデ」とプラカードを掲げた。一億年後に返事が届き、他の星雲でも「見タゾ」のプラカードが掲げられる。老人は自分のイメージが損なわれないよう釈明のプラカードを掲げるようにしたが、星雲は次第に遠のいて、光の速度を超えて後退する。すると老人の釈明は永遠に届かない。宇宙的な孤独の現れ(実際、いま(とはいつか)から千億年後には銀河系宇宙以外の宇宙は高速では追いつけない遠くに行くのだし)。21世紀にはSNSの炎上の比喩にも思える。

渦を巻く ・・・ 老人が軟体動物(の前駆?)だったころ、ある娘に惚れてしまった。娘にどうアプローチしようか考えているうちに娘はいなくなり、老人は石灰質を分泌するようになり、閉じこもり、いろいろ思案するうちに視覚を獲得する。それはイメージを持つことでもあった。(軟体動物は視覚を十分にもたないのに、人間が見て美しい複雑な物を創り出すという文章から創発された小説)

 

 冒頭に科学書から取り出した一節が引用される(もしかしたらカルヴィーノの創作かも)。それを聞いたQfwfq老人は語りだす。老人は原子の海にもぐりこんでいたり、恐竜だったり、軟体動物だったり。時には宇宙創成前からの存在であったり。その融通無碍ぶりといったら。
 全部がQfwfq老人のモノローグ。でも、なんにでもなれるQfwfq老人がもっているのは文体の同質性だけ。それ以外の属性を供えていない。一人語りのうっとうしさから免れていられる。同じようなモノローグの文体だと、ドストエフスキー「地下室の手記」のような自閉性がでてくるものなのだけど。あるいはデカルトの「方法序説」ハイデガーの「形而上学入門」を思い出してもよいかもしれない。「私」の同質性や持続性にこだわると、思考の形式も自閉的になりやすい。自分や私だけでは説明がつかなくなって、超越的な概念(神や国家や民族)を使いたくなる。でもカルヴィーノQfwfq老人は「私」から抜けられない文体なのに、自閉的ではない。この数百年の思考の桎梏から抜け出せたのはすごいなあ。
(ああ、そうか。森敦「意味の変容」(ちくま文庫)に近いのはツァラトゥストラではなくて、この「レ・コスミコミケ」のほうだ。)

 

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