この歴史的書物に関しては、生半可なことしかいえないので、本質とは全然無関係の駄弁を連ねることにする。
感心したひとつは、著者エンゲルスが類まれな知識の持ち主であって、たんに経済学と歴史の専門家であるばかりでなく、化学、物理学、生物学、数学などの自然科学にも非常に通じていることだった。およそ哲学あるいは経済学の書物の中で、これほど多くの自然科学の事柄が書かれたことはなかっただろう。もちろん、この時代が博物学最後の光芒を放った時代であること、それにより科学に関する専門家の講演が多々行われていて、知識人はそれによく参加していたこと(ファラデー「ロウソクの科学」、ハックスレー「科学談義」など)、とくにこの時代には科学研究を国家が推進して研究家という職業が誕生していたこと、などの背景があることをわすれてはならないだろう。それがあったにしても、エンゲルスの知的興味の領域は非常に広いものであった。
ただし、今の時点からすると、1870年当時の科学の学説には誤ったもの、あるいは今日の視点からは幼稚なものがあって、気恥ずかしくなるような記述がある。われわれの中学あるいは高校で学んだ知識を持っているものならば、その誤りを指摘するゲームが可能だろう。たとえば、現在では「個体発生は系統発生と繰り返す」ということば以外には、何の影響も残していないヘッケル(「生命の不可思議」岩波文庫)の学説が紹介されていたりする。この点はもうひとつの著作、「自然弁証法」にはさらに当時の珍説が載っているらしいので楽しみ。
二番目は、「弁証法」を多くの場面で適用していること。とくに生命現象にまで展開しているのは勇み足ではないか。麦の種があることを「正」、発芽し種の形態を失うことを「反」、生長して多くの種を持つことを「合」とするのは、牽強付会もすぎるというものだ。これも今日的な立場からの批判に過ぎない。まだ科学の方法あるいは思考の方法に関する議論はなくて、アリストテレス―へーゲルの「弁証法」が唯一の科学的方法論であったという時代の反映であるのだ。
これを読むと、今日の最新の科学知識を取り込んで、この書物を書き直したい誘惑に駆られる。おそらく多くのマルクス主義学者が試みたはずだ。しかし、ひとつとして今日に残る書物がないところをみると、問題は知識を当てはめるだけでは、エンゲルスの議論を今日に生かすことができない、そうするためには再度自分で考えなければならない、という単純なことによるのだろう。
三番目には、エンゲルスあるいはマルクスは、罵倒のことばがとても豊富で皮肉めかした言い方が得意であったということ。この時代のパンフレットなどの文体なのだろうが、ニーチェのほうがもっと美しい文章であっただろう。のちのマルクス主義者は、罵倒の文体はしっかりとまねしていたものだ。あいにく、議論あるいは反論としては弱いものなのだが。
2004/09/28