世間に無知な青年が都会に来て、次第に社会知と自我に目覚めていくという話は、一般的だ。「赤と黒」「三四郎」などを持ち出したいように、無垢な青年の目が社会の批評になっているという構図を作ることになるから。この小説は、戦後アメリカを舞台にしたそのような自我の目覚めの物語。原著の発行年がわからない。邦訳は1955年なので、その数年前になるだろう。
特徴的なのは、青年が戦争を経験しているということ(時代は朝鮮戦争)。戦場のできごとはほとんど書かれていないので、どれほど深刻な目に会ったかはわからない。トーキョーで1万4千ドルをギャンブルで儲けたというから(現在では2億円くらいになるのか。そんなギャンブルができる場所が東京にあったとはきかないし、あったとしても一般兵士がそんなところに行けたのか? まあいいや、1950年当時の東京はアメリカの目からすると、それほどのエキゾティズムの対象であったということに注意するだけでOK)、そんなに深刻にはなっていないはず。そのあたりは、ケルアック「路上」の青年と比較してもいいかもしれない。戦争を経験したニヒリズムは新しいものだ。過去の世代のような出世や自己確立というのは、モラルにならない(その前にヘミングウェイとかフィッツジェラルドなんかがいたけどね)。
そのような青年の行き先はハリウッド。この場所も特徴的であって、戦前のようなスキャンダルと酒池肉林の場所ではなくて、マッカーシズムによって恐怖と密告の巣窟であった時代。これはたとえばリリアン・ヘルマンあたりで補完しておけばいい。エリア・カザンあたりをモデルにしたらしい老年の映画監督の没落の物語も同時進行する。彼はあまり強くない良心によって密告を拒否したので仕事を干されている。そしてニヒリズムでもって自堕落な生活をしている。結局、彼は映画会社の説得によって、告発を受け入れ仕事に戻ることになるのだが、これが東欧の小説だったら拒否を貫いてもっと悲惨な目にあうことを主題にするだろう(チェコ時代のクンデラとか)。
作者は非常に饒舌で、詳細を延々と描き続ける。言葉の奔流(とはいえ語彙が多いというわけではない。ミラーとは違う点)がニヒリズムなのかもね。初期の大江健三郎がこの人の影響を受けていること(内的独白が続いたりとか、主人公の設定方法とか、ときどきゴチック文字を使うところなど)がわかった。