odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

オルダス・ハックスリー「すばらしい新世界」(講談社文庫)

 1932年初出のディストピア小説ディストピアであると思えるのは読者だけであって、登場人物たちは幸福そうに見える。失業がなく、娯楽が十分に提供されている世界では生活も精神も自足するようだからね。

 冒頭で、人間が人工授精されて容器で発育するというイメージが語られる。これをグロテスクと見る人がいるけど、18世紀のホムンクルス仮説のように人工生命を試験管内で製造しようという考えはあったので、作家の慧眼であるわけではない。そこにフォーカスして「生命倫理」の最初の提唱者みたいな見方をするのは一面的になる。
 すなわち、この社会には経済を人間の人生全体に貫徹した究極の資本主義のカリカチュアをみたほうがよい。人生には経済に収まらない出来事があって、たとえば贈与とか交換とか恋愛とか性交。家庭内の仕事や共同体の祭りとか。そのような経済ではないもの・ことを全部経済システムに組み込んだのがこの「すばらしい新世界」。その手始めは、失業を完全になくし、すべての人がふさわしい生産活動に割り当てられている。労働時間も7.5〜8時間となっていて、同時代や19世紀のイギリスの環境に比べるとはるかに改善されている。余剰時間は政府(?)の提供する娯楽がふんだんにあり、ほぼフリーセックスであってだれとでも性交でき、触感映画が代替物となる。それでも満足しないものにはソーマという飲み物で数時間の悦楽がある(作家はのちに薬物トリップによる至高体験を提唱したなあ)。老化は医学的に抑えられ、死ぬ(それは生産活動のできなくなることと同意義)まで青春、性の抑圧がない。平等も達成されているわけだ。比較する対象がないので不満を持たない。
 それを可能にするのが、家族と恋愛の解体だ。上記のように子供は政府(?)が生産計画に基づいて必要数だけを工場で生産する。人口の過剰や高齢化、少子化など、マルサスの問題は管理と計画で解決している。その後の養育も工場のごとき場所で集団で行われる。子供たちはアルファ、ベータ、ガンマ、エプシロンのランクがあって、それぞれに割り当てられる生産活動にあうように睡眠学習が行われる。必然的に家族は解体。なにしろ個人間の契約や同意で子供を作る必要はないのだから。むしろ恋愛や出産はタブーで禁忌で忌避されるいまわしいできごと。
 このように社会のすべてが経済に組み込まれているのだ。この社会では「フォード」を神とあがめる。まあ、フォードは工場の生産を複数の工程にわけ、分業することで生産性を高めた。それを社会全体に広げたのがこの「すばらしい新世界」になる。おもしろいことにフォードの分業の仕組みに、レーニンは興味を持っていた。ロシア革命後の計画経済のイメージはフォードによるところがあるらしい。というわけで、資本主義の究極の姿が妙にレーニン共産主義に似ているのがおもしろい。労働と家族がないのはレーニン型共産主義の理想だものね。生産者と管理者の二つの階級しかないのも同じく。
 そのような社会をユマニストが見るとかけているものがたくさんある。上記のように家族であり恋愛であるわけだが、ほかにも教養(ここでは古典は焚書済み)、プライバシー、孤独など。まあ、思想や表現の自由がまったくないわけだ。作家の社会批判は主にこの観点から。
 さて、この「すばらしい新世界」の社会システムはうまく動いている。しかし、ときどき揺るぎが生じる。それは二つの方向から。ひとつはエリートで社会の管理を担当するものに生まれる異端者(アノマリー)。計画や管理のために「考える」習慣を持つのであって、ときに社会を批判する視点をもつことがある。この小説だと、バーナード・マルクスヘルムホルツ・ワトソン。もうひとつは、母の胎からうまれた「野蛮人(サベージ)」であるジョン。シェイクスピア全集を親から譲り受け、さまざまに引用するのがおかしい。彼はルソー的な「自然」と「教育」の具現者。彼は「すばらしい新世界」の幸福を共有できない。むしろ「意味」を問うことが重要と考えている。それがジョンのもとめる「自由」。存在の意味を求める自由は、そのまま社会の既成やルールに抵触し、制限を受ける。それに憤慨することがあるとはいえ、彼らは散発的な存在で、同士を集めたり、社会改革を目指すことはない。「革命」の芽が育つのはなかなか難しい社会。念のためだが、ルソー的な「自然」は社会批判に有効でないというのは押さえておきたいポイント。この「自然児」は教養をもち道徳的ではあっても、感情を爆発させるので、倫理を他人と共有できるわけではない。彼のような存在もまた社会と経済の仕組みがあってこそ成り立つ(政府?は意図的に野蛮な土地と人々を残しているのだ。それは生産階級の不満をそらしたり、彼らの道徳を守るための反面教師の役割を与えられている)。
 問題があるとすると、システムそのものか。この社会はムスタファ・モンド(モンドはイタリア語で世界の意味)の独裁。彼は古典教養ももつ科学者。若い時はマルクスやワトソンのようなアノマリーだったが、当時の閣下・総裁との取引でシステム化の管理者になった。どうもこの統制官は次代の育成を考慮していないようなので、彼が死んだときにシステムが壊れるかのうせいがありそう。それまでは、読者からみるこの陰鬱な社会は健在で、住民たちは幸福に暮らすだろう。
 自分の読み方は以上。これは「物質文明(よく使われる言葉けど、いったいどんな意味なのかしら?)の批判」「人間疎外の告発」「全体主義批判」などと読むのは不充分。経済システム、資本主義をみないと、それらの批判は対象に届かない。
 登場人物の名がさまざまな有名人のもの(ほかにダーウィン、レーニナ(レーニンの女性名)、バクーニンなどが登場)。キャラクターに皮肉を利かせるのに役立っている。それに、「精虫」「精子」が連呼され、夫婦・父母・出産などが四文字言葉扱いになっているのも皮肉。イギリスのブラックなユーモアが随所に登場。
 もう一度発表年の1932年に注目し、イギリス、アメリカ、ドイツ、ソ連のどれをもこけにしているのを楽しもう。あいにく、作家は次第に風刺や皮肉を書くことをやめて、悲観が高じて、神秘主義に至ってしまった。1960年代によく読まれたのは、後年の著述(ドアーズの名称由来になった「知覚の扉」など)。