odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎/武満徹「オペラをつくる」(岩波新書) オペラを趣味でよく聞く大江がオペラ作曲のオファーをうけた武満の相談にのる。

 武満徹は1930年生まれの作曲家。さまざまな分野の作品をつくってきたが、未制作なのは交響曲とオペラ。50代なかばになってちゃんときいてみたら、オペラに興味がでてきた。でも、どんなオペラがつくられるべきなのかわからない。
 大江健三郎は1935年生まれの作家。オペラは趣味としてよく聞いている。ヴェルディマリア・カラスのファン。どういうわけか音楽のことをエッセイや評論で書かなくなったが(武満徹の作品を除く)、若いころ(それこそデビュー2-3年後まで)はジャズの短いエッセイを書いている(「厳粛な綱渡り」所収)。作家の仕事には戯曲や舞台作品はないので、どういうリブレットが可能かはわからない。
 背景にあるのは、武満がいくつかのオペラハウスからオファーを受けていて、委嘱作品としてオペラを書くことになっていたから。ただ手がかりがないので、作家といっしょにどういうオペラにしようかという対談を4回行った。それを収録したのが、この本。1990年初出。その5年後に武満徹は亡くなり、オペラは完成しなかった。

 でここで構想されているのは
・オペラは、ヴィジョンを提示するものでなければならない。ヴィジョンはわかりにくいのだけど、一瞬のうちに全体、世界の総体を見渡すことができ、現在のうちに過去を未来が一挙に現れ、無時間が永遠であるような見通しがあり、そこに世界の意図と自分の意義が開示されている、ようなことかな。ブレイク、ダンテ、ほかの西洋の神秘主義者はヴィジョンを重視している。
・オペラは、現実の政治に対する批判と提案を持たなければならない。舞台が過去や未来や想像にあるものでも、現実の政治にアクチュアリティをもっていればよい。例はヴェルディの諸作品。
・オペラは共同制作でもって、制作の過程で関係者は自己変革を果たす契機を持たなければならない。
・オペラは多重言語であるべきで、特定の言語圏だけで通用するものであってはならない。
 あたりが自分の気の付いた点。いくつかのリブレット候補があって、ソムトウ・スチャリクトル「スターシップと俳句」(ハヤカワ文庫)マヌエル・プイグ「蜘蛛女のキッス」(集英社)が有力候補。あとはタルコフスキーの映画も参考にしている。結局のところ、これらの外部の物語ではどうにも展開が難しいようで、大江がリブレットを用意した。リブレットとしてはうまいできにならず、谷川俊太郎に応援を依頼しようという話もでてくる(なんと、きらびやかな交友関係)。リブレットは小説に書きなおされて、「治療塔」として発表された。
 「オペラを作る」というタイトルから、自分は予算とかリソース確保とかプレミア予定日から逆算したタイムスケジュールとか上演に関するリスクの洗い出しとか宣伝方法とかチケットの販売手配とかそういう裏方仕事に興味をもつけれど、そこには一切触れない。まあ、表現者同士の対談なので、そこはスルーしてもよいのだろう。うらやましい立場だな、と思った。
 作られなかったオペラのことをどうこういうより、老年に入った二人の創作現場の報告が面白かったな。創作活動を30年もやっていると技術だけで作品を仕上げることができる、そのために冒険や挑戦の意識が薄れてくるので自己批判が必要。毎朝とにかくなにか書くことをしている(作品になるかどうかは別にして)。「ラスト・ピース(最後の作品)」という概念が気になる(そういう仕事をした人の生き方を含めて)。宗教的な人間ではないが「救済」「ゆるされ」「ヴィジョン」などが気になる。そのうえで、大江は自分を「ネオ・プラトニスト」と規定していて、何ごとかのイデアに向けて自己を超克しようとする意思をもち、人間の知覚では認識できない超越的なもの・ことに自分がつながっているという感じをだいじにすることなのだろう。
 そうすると、「治療塔」他の同じ時代の作品を読んだ時の違和感(批判といえるほど突き詰めて考えているわけではないので)のでどころは、「ネオ・プラトニスト」にあるのだな。まあ、ルネサンスの時代に新しい学問を生んだ考えではあっても、そのあとの科学が捨てた考えだよな。自分は科学の仕方で物事を考えるようになっているから、上のような「ネオ・プラトニスト」」の考えはよく理解しえない。

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 ここに感想を期すのが適切か悩むところだが、メモとして。
 作家の重要な考えはヴィジョンだそうだ。西洋神秘思想によく見られるこの考えは、なかなか説明しがたいし、自分の納得する仕方で説明できないので、ここでは省略。作家の善意や民主主義などへの傾倒、信頼というのは、ほかの文章でよくわかるので、彼のヴィジョンを小説などを通じて理解しようというのは、まあよしとしよう。
 気になるのは、世界への参加のしかた、社会の変革の動機として、個々人のヴィジョンから世界イメージを見ようという方法について。繰り返すけど、なるほど作家のヴィジョンは民主主義や核のない世界であるので、そのヴィジョンが善意であるだろうとはおおむね同意できそう。
 とはいえ、すべての人が同じようなヴィジョンを持つのか、というと、さあ、それはどうかしら。個人のコンプレックスがあるとか承認要求が満たされなかったりして、もっと物騒なヴィジョンを持つものもいるではないかな。特定の人種を絶滅して自民族だけしかいない国家をもくろんだり、自分らの教義に批判的である人たちを「ポア」することによって宗教共同体の設立をもくろんだり、現代科学や医学を拒否してなんら効果を持たない医療体系を社会に押し付けようとしたり、世界の終末が近づいているからランチキを起こしてみたり、・・・。この種の事例を収集しているわけではないので、ここらへんまでにしておくしかない。これもまた個人的なヴィジョンを世界変革や社会参加に適用した例であって、その惨禍はそれこそ人類の歴史レベルで、いつ・どこにでも見られたのではないか。
 そのような事例が現出してから「寛容は不寛容に対して不寛容であるべきか」という問題は遅すぎるのではないか。