odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

渡辺一夫「僕の手帖」(講談社学術文庫)

 著者は東大仏文学部の教授。ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」の完訳で有名(全部読んだぜ、すげーだろ、なんも覚えていないけどよー)。あとはこの人の講義を聴くために大江健三郎が四国の山奥から東大仏文科を目指したというのもよく知られた話。戦後に書かれた発表されたエッセイを収録(1951年初出)。

1.To the unhappy few ・・・16世紀のフランスのユマニストは、人間に与えられたもっとも貴重なものは理性と言葉と手だという。手は自然を加工するもので、その延長に機械がある。どうも、機械のおかげで人間は不幸になっているのではないか。

2.海の沈黙 ・・・ ヴェルコール「海の沈黙」が深い感慨を起こさせるのは、ナチス占領下のフランス人がドイツ人に沈黙するのはたんに敵対心にあるだけではなく、相手に対する共感を持った上での沈黙を行動としているから。自分自身の中に非人間的なものに対する監視することに努力すれば、争いは回避できるのではないか。

3.業について ・・・ 業という考えは仏教にもキリスト教にもありそう。

4.虚偽について ・・・ 真実を伝えようとしても受け付けず判り切った不幸に向かっていく者には、うそや虚偽を述べなければならないかもしれない。これは本当に情けないこと、慟哭に値すること。うそや虚偽が生じる原因には個々人の認識や知識の差にあり、そのことをわかった上で自分の信念はどこに根拠があるか、他人の信念はどこに根拠があるかを反省する理性とゆとりが必要。悪い例として、「徳田要請問題」で通訳者を追い詰め自殺させたものたち(木下順二「蛙昇天」参照のこと)、初期キリスト教の指導者にみることができる。ユマニストの本性は、人間の認識の限界を知った上で真実に肉薄することにある。

5.ユマニストのあわれ ・・・ 政治を批判するものは政治から離れているべきだと著者は考える。たとえば、政治批判をしていたエラスムスがルターの宗教改革運動に距離を置いていたことなど。それでも政治は個人の思惑を超えて、いやおうなしに介入してくるものなのだが。

6.水洗便所の効用 ・・・ 昭和26年に他に先駆けて水洗便所にしたらすこぶる快適だったよ。

7.日記抄 ・・・ サルトル「賭けはなされた」という映画をみた。まあ、成功に至る可能性があるのなら賭けるべきで、そこにしか自由はない。以下に苦しくとも人生は守りあわねば(「あわねば」が強調されている)。

8.平和に耐えること ・・・ 平和はつらいものだがこれに耐えなければならない。平和が生じる不安や重圧に耐え切れず、えいと思ってやったほうがよいというような弱さの人間にはある。平和を破綻させかねないような人間の邪な意欲や社会の欠陥があとからあとから出現するのに対して、平和は忍耐強い監視と是正を加え続けるというのが平和の辛さ。平和は維持するためには、現状を維持されてはならず、常に修正されなければならない。平和の辛さに耐えられないのは、人間の機械化に原因があるのではないか(ここでいう「機械化」は身体が機械に置き換わることではなく、権威や権力に盲従し、命令を遵守し自分で考えることをしないで、ルーティンな生活を送ることをいう)。同時期に林達夫が「共産主義的人間」を雑誌に発表していて、ほぼ同じこと(とくに共産主義社会の政治ボスの存在、一枚岩思想に憂慮すること)を考えていることに共感している。

9.寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか ・・・ 答えはyesであるが、現実には不寛容が存在するので、激化しないように努力しないといけない。不寛容は自分の観念や理想を暴力でもって強制しようとする。それにたいし、寛容の側の手段は説得と自己反省しかない。これは不利なことで、迂遠で凡庸なことに耐えることの難しい人間は、男らしく壮烈で、手っ取りはやいように見えるので、そちらに傾きやすい。不寛容は英雄を作るが、寛容は無名の市民を作る。たとえば1950年ころのアメリカの無名市民のことば。

「我々と同じ意見を持っているもののための自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」
「自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異なった意見を持ちうるか否かにかかっている。」

10.古本について ・・・ 人に言葉への興味がある限り、古本屋の栄える国には人間が快く住めるだろうし、そうでない国には人間はいないだろう。

11.読書の悲哀について ・・・ たとえば、一生の間に読める本には限りがあるとか、若いときの読書の感激を追憶すると恥ずかしくなる、とか。

12.読書の恐ろしさについて ・・・ 一生の間に読める本は限られているのに、多少を読んで何もかもわかった振りをするのはおかしくないかい。「群盲、象をなでる」ということわざを思い出そう。

13.読書の思い出 ・・・ 1920年代に何を読んだかというと、漱石から白樺派あたりで、多少の哲学書かな。東大仏文にいったのは「ジャン・クリストフ」とピエール・ロチ「アフリカ騎兵」、アナトール・フランス「タイス」を読んだからだよ。

 後半のサマリーはすこしおちゃらけた。
 重要な論文は、8と9。マッギヴァーン柄谷行人などの感想(いずれエントリにする予定)に出てくる「正義」とか「倫理」に関することと関係している。不寛容に対する寛容の重要性は、当時においてはマッカーシーズムとかレッドパージなどにおいてあてはまるのであろうし、20年後には新左翼内ゲバにかかわり、21世紀初頭においてはイスラム原理主義に関係するのだろう。あいにく著者の希望する事態は実現していないし、無名の市民の側でも主流の考えになっているとは思えない。平和に耐えることと同様に、寛容を実現するためにはたいそう克己が必要なのだ。
 あと、同時期に林達夫「共産主義的人間」が書かれている。同じ主題について表裏のような見方を示しているので、合わせて読むとよい。と考えたのだが、いずれも品切れになって久しいらしい。ただ岩波文庫に別タイトルで主要論文は読めるようだ。
 また後半の読書に関するところ(10-13)は、伊藤整「若い詩人たちの肖像」今東光「悪太郎」三木清「読書と人生」湯川秀樹「旅人」などと併せて読むとよい。この時代の若いインテリがどういうところに興味を持っていたか、それに影響を与えた社会や学問の状況がどうだったかが見えてくる。