odd_hatchの読書ノート

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フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(岩波少年文庫)

 トムは落胆していた。夏休みが始まったというのに、ロンドンでははしかが流行し、弟のピーターが感染してしまったのだ。そのため、ロンドンの北にある叔父さんの家に滞在することになった。その町でもはしかの小規模な感染があり、トムは外にでることができない。運動不足で眠れないトムは、古い貴族の屋敷を改造したアパートにあるいつとも知れぬ古い大時計が時を打つのを数える。11、12、13・・・13? その時の音を聞いたトムがベッドを抜けて、裏庭にでたとき、彼のクエストが始まる。

 裏庭には大きな庭園が広がり、古い衣装を着けた人たちが暮らしていた。その中に、6歳くらいの女の子、ハティがいて、彼女だけがトムがいることを知った。それから毎夜、トムはベッドを抜け出して、ハティに会いに行く。奇妙なことにハティは会うごとに年齢を重ねていき、いつしかトムよりも年上になってしまった。あるときトムはハティに頼みごとをする。スケート靴を君の部屋のたんすの下にある隠し場所に入れておいてくれ。その翌日、トムはその場所に刃がさびたスケート靴を発見したのだった。
 一方、叔父さんの家には家主のバーソロミュー未亡人という偏屈な婆さんがいて、誰からも嫌われている。大時計の秘密を知ろうとするのも婆さんに気づかれないようにしないといけない。大時計の文字盤には奇妙な絵が描いてあり、鍵のかかった表版の裏には由来を記す銘板があるはず。苦労して解読すると、それは黙示録第10章の1-6節。メッセージは「もう時間はない」。次第にトムは時間旅行をしていることに気づく。
 あさってには自宅に帰るという夜の裏庭は、イギリス中の河川が凍りついた年(1895年)だった。トムとハティ(このときにはすでに20歳に近い)はスケート場で思う存分にすべり楽しむ。帰り道の馬車の上で、ハティは偶然出会ったバーティ2世にプロポーズされるが、疲労し寝入ったトムは気づくはずもない。そして夏休み最後の夜、トムはもはや裏庭に続く木戸を見つけることができない。パニックに陥ったときにだした彼の叫びは謹厳なバーソロミュー未亡人の目を覚まさせ、激しい叱責を予感させるのだった。
 そのあとの20ページはおのおの読んでくれ。作中なんども問いかけられる「時間とは何か」のひとつのあり方を知って、愕然とするだろう。少年の夏休みがこんなに意義深いものになるなんて。
 テーマは郷愁。これはローティーン向けに書かれた小説であるが、むしろすれっからしの中年以降が読んだほうがいい。ハティと同じように、誰もが、昔々に時々現れ、淡い憧れをもったものの、姿を消し、いまだに忘れることのできない異性の一人や二人を記憶しているのではないかい。そういう思い出を持っているものには、最後の1ページは涙なしに読むことはできない。そして、その瞬間にトムは子供ではなくなったことを知るはず。
 さていくつか注文。ひとつめは、ストーリーもキャラクターもシリアスに過ぎるんだ。もう少しユーモアを入れてくれれば、支持層は増えるのに。ふたつめは、訳が古いのではないかしら。女中をメイドと、女王さまをプリンセスと訳したら、もっと広範な支持を受けるはず。もうひとつは、オリジナル尊重で初出のイラストを収録しているが、ちっとも萌えない(写真参照)。別のものにしてください。(訳者は「極光のかげで」「スターリン体験」の高杉一郎。本人に敬意を表しつつも、この仕事には文句をつけますので、ご了解ください。初出は1958年。まだだれもがシリアスで背筋を伸ばすのがあたりまえと感じていた時代。)