odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

舟崎克彦「ぽっぺん先生と帰らずの沼」(ちくま文庫)

 ぽっぺん先生シリーズの第2作。1974年初出。

 大学は夏休みになったけど、ぽっぺん先生は今日も出勤。というのも、大学構内の「カエラズの沼」の生態系を30枚で書いてくれという執筆依頼があるから。暑さのせいか書きたいことがありすぎるのか、ぽっぺん先生の筆は進まない。昼食のランチを食べていると、目の前を肌色のカゲロウが飛んでいく。虫好きの血が騒いだのか、それを追いかけると、いつのまにかカゲロウに変わっていて・・・それから始まる「カエラズの沼」の生態系を一周する冒険。沼の名前とストーリーが一致しないのは笑いどころかな?
 すなわち、カゲロウは沼におちて長鼻魚に食われ、長鼻魚はカワセミに食われ、カワセミはイタチに食われる。イタチはねずみ駆除のための毒薬を飲んで死亡(このイタチの描き方を斎藤惇夫「冒険者たち」(講談社文庫)のノロイと比較すると良い)。遺体にくっついていた胞子から生まれたキノコに転生し、キノコと飼育するアリに運ばれて羽アリに食われる。さてここまで転生を重ね、カエラズの沼の異常事態に対処する方法をぽっぺん先生も学んでいく。ぽっぺん先生ぽっぺん先生に戻ることができるか(ん?)。ここでは、命の転生があるという前提の世界。なので、死ぬことはまるで恐怖ではない。そして転生後の新しい生においてぽっぺん先生のみ以前の記憶を保持していて、それは欠点にもなるし(その生物の生き方とかルールとかを理解、実践できない他者として排除されて生きるしかない)、長所にもなる(間の抜けて空気を読めない性格は他のキャラクターに信頼される。ああ重要なのはぽっぺん先生は自分から新事態に向き合い、積極的にコミュニケートしているんだよ)。彼の転生する生き物の生の面白さもさることながら、別のキャラクターの人間くささにもくすっとにんまりする。沼に投げ込まれるガラクタを集めて世界の真実を探求するナマズとか、アオガエルを家来に世界を分割統治する妄想をもつトノサマガエルとか、ベートーヴェンの「歓喜の歌」を聞いて機嫌をそこね本能のままに歌えるようになるぽっぺん先生の求愛を受け入れるカワセミのお嬢さんとか、ね。
 生物の多様性とか食物連鎖とかは、個々人の集まりに重要な影響をもっている。人間もその輪のひとつであるのだよ、ということかな。書かれた時代はこの国の公害のもっとも深刻な事態にあるころで、生態学の知見は人々の望む情報であった
 この話がよくある教訓や道徳を教える陳腐で退屈なものにならないポイントは主人公が大人であることかな。この「天然」な先生はこどもの好奇心をもっていて、世間知らずのためにコミュニケーションがうまく取れずに失敗ばかりして、という具合に子どもによく似ている。それでも、判断や考察は大人のそれで、決してこどもに迎合しているわけではない。いったいこの作者の書くものには、ヒーローやヒロインに作者を投影して優れた性格や技能を与えるナルシズムはないし(ちょっと間が抜けている普通の子が異世界にいくと世界を救う選ばれもしのであるという話の陳腐なこと)、自己犠牲や他者の期待を一心に受けてがんばるというセンチメンタリズムもないし(ヒーローの危機を助けるために自己犠牲をいとわないサブキャラクターを設定することの安直なこと)、世界を救った後に「今までの」「懐かしい」「自分がいることを肯定してくれる」というような現状肯定もない。まあ、そういうありふれた陳腐なものから遠く離れていることが、この児童文学を大人になってからの再読に耐えるものにしている。そうなんだよな、振り返れば現実では「この私」に使命を与えるものはいないし(与えられているのは王侯貴族と奴隷くらいなものだ)、「この私」は他の人と角つきあわせ喧嘩と謝罪と妥協と交渉を繰り返すという面倒なことをするし、愛や友情はそう簡単には結べないし(これは俺だけのことかなあ)。という具合に、読み返すと、ぽっぺん先生はまさにわれわれの現実の地続きであって、ほんのちょっとの戯画化があったとしても、リアリズムの小説に他ならない。