自分はこの人の映画解説を子供のころからTVで見てきたので、彼の口調や笑顔はよく知っている。彼が語ると、出来の悪い映画にも面白そうに思える。映画そのものの悪口を言わないとか、上映する映画のかわりに俳優やカメラマンのことをかたるとか、、なるほど出来の悪い映画にもどこか発見するところはあるのだ、ということがわかる。
というわけで、彼の自伝を読む。1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日という長命であったが、この自伝は1985年ころまで。
・ハイカラな町、芸者小屋の息子、30歳も年の違う父と母、自由放任で育てられた二人の姉、姉を溺愛する祖母。なかなか家族の中は複雑。長治が父を嫌い、母を思慕し、姉とは距離を置く。結局生涯独身を通した。(その背後に彼の性癖があるらしいが、ここでは取り上げない)
・ラジオ放送の始まる前に、神戸では映画館の連続活劇をほとんどの大人が見ている。銭湯の会話が、映画の内容について。このように映画を受容した町は神戸くらいなのではないか。その町に生まれて、3歳から自発的に映画館通いを始める子供がいた。たしかに彼が映画を語るとき、もっとも生き生きとするのは、古い無声の活弁映画だった。自伝にあるように上映した映画はフィルムを返却する義務があったが、たいていは無視してフィルムを焼却していた。そのために戦前の国産映画はあまり保存されていない。したがって、彼の語りだけが失われた映画を思い起こすよすがとなる。
神戸時代の記憶は、淀川長治「映画が教えてくれた大切なこと」(扶桑社文庫)に詳しい。これを読むと、当時の映画館の人いきれや匂いまでが漂うよう。ちなみに同じ時代の神戸には、今東光や横溝正史が青春を過ごしていた。彼らのモダニズムの背景には神戸という国際都市、ハブ港の存在があると思う。
・長じて神戸ユナイトの宣伝部に就職、外国資本が放逐されたあとは東宝の宣伝部に。そして神戸から東京に移動。鶴見に家をもつ。このあたりでの戦争に関する述懐が貴重かな。「号外!」の売り子の声で知った日米開戦でこの国の敗戦を悟り、昭和20年の春に鶴見からみる東京の空襲と火災に映画を重ね合わせる。8月15日の放送も淡々と聞き流すだけ。この無関心というか、社会からの引きこもりというか、彼の態度は、永井荷風や林達夫と重なるところがある。
・代わりに筆が生き生きとするのは、進駐軍の米国軍人との交流。つたない英語で話しかけると、英語をしゃべれる家があるということで軍人が頻繁に立ち寄るようになり、戦前のブロマイドやポスターを彼らに見せるうちに、なかよくなって映画の仕事に復帰していくあたり。ここらへんは戦後文学に書かれた進駐軍との関わりと全然違うので面白い。似たような占領軍兵士とのかかわりを持ったのが、赤塚行雄(「戦後欲望史 4・50年代」講談社文庫に詳しい)。多くの知識人が占領軍や兵士と緊張関係にあって、息苦しい気分やご機嫌伺いの卑屈さを感じているのとは対照的に、対等の関係を結ぶことに成功している。
・下巻は渡米体験。彼は1950年代の渡米を何度も語る。というのも、彼の憧れた人たち、クラァーレンス・ブラウン、エドナ・パーヴィアンス、ジョン・フォード、チャールズ・チャップリン、アドルフ・ズーカーなどなどと会ったから。吉田秀和「音楽紀行」、加藤周一「羊の歌」、小田実「何でも見てやろう」などなどにあるように、渡航することはこの時代、困難、というか想像以上のものであったのだった。その感激というのは繰り返し語るに足る事件であるのだろう。小田実「何でも見てやろう」の分類によると、著者の年齢からすると2代目にあたるのであるが、著者の場合、本からの西洋を知ったのではなく、映画で知ったということか。この人の中には、西洋とこの国の対立とか共通とか、西洋の咀嚼というような問題意識には無縁。その純粋さ、無垢さが、微笑ましい、というか同時代の知識人のしかめ面の中にいると異色だったのだな。
淀川長治/蓮実重彦/山田宏一「映画千夜一夜 上・下」(中公文庫年)
淀川長治「シネマパラダイス 1・2」(集英社文庫)
淀川長治「私の映画教室」(新潮文庫)
あたりがどうにか彼の喋りを思い起こすことのできるものなので、あわせて入手しておくとよい。