odd_hatchの読書ノート

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ウィリアム・モリス「ユートピアだより」(岩波文庫) 西洋の近代がもたらしたもの(資本主義、貨幣経済、民族国家、科学技術、民主主義など)をすべて廃棄した活動と生活の芸術化、信義と友愛の疑似家族の世界。

 188X年、社会主義者の会合で疲れて帰宅した「私」は夢を見た。それは200年後の社会で、共産主義社会が実現していた。その話をぜひ書けとすすめられたので、ここにまとめてみた。というわけで、19世紀の詩人で工芸家ウィリアム・モリスの構想したユートピアが語られる。この物語は、22世紀に目覚めた初老の男が未来のきげんがよいほがらかな人々に案内されて、話を聞くという構成。事件らしい事件はない。22世紀のイギリスの人々と話し合い、テームズ川を下る観光があるだけ。ストーリーを語っても仕方がないので、かわりに1890年にモリスが構想した共産主義社会をみることにする。


 19世紀末の資本主義の矛盾が深まり、労働者と資本家の対立が深刻になっていく。意識する労働者と社会主義者が労働者の組織化を進めているところ、1952年に大不況。インフレと失業で生活が困り、政府はほぼ無策。一時期政府は労働者同盟に権力の一部を譲渡したが、反動家の策謀により軍隊が出動。大虐殺が発生し、労働者と政府は決裂。ゼネストで労働者は蜂起し、しばらくは政府が機能しなくなる。その間に、労働者の自主管理・自主運営が自発的に作られ、生活が安定していく。そして庶民や市民の意識が変化。多くの人々は都市から田舎に戻り、自給自足の生活を始めた。ついに国家が瓦解。資本主義がなくなり、権威主義もなくなって、人々は「本来的」な生活をするのである。この移行の諸段階はおおむね当時の共産主義者アナキストの構想したものだろう。国家が搾取のシステムにあるかぎり、労働者は対立せざるを得ず、暴動や蜂起による決戦を経なければならない、という考え。社会の混乱の乗り越えがこのようにスムーズにいくのか、人々がほぼ同じ考えにまとまっていくのか、いろいろと突っ込みたいが、そこはおいておくとして。
 この社会は、資本主義と民主主義を揚期している。なので、おおくの習慣やあるのがあたりまえだったことがなくなった。リストアップすると、貨幣・労働・教育・牢獄・私有財産・機械・科学技術・宗教など。人々を搾取する労働(企業や工場)はもはやない。人々は、自分の得意なこと・好きなことを自由に、時間に縛られずに行う。労働と趣味や余暇の差がなくなって、労働がたのしみになっている。そりゃまあ、労働はせいぜい4時間/日で、きままにおこなえばよいのだからね。それでも食糧生産は潤沢で、最低限の衣服・什器ほかは供給されているらしい。機械がほぼ無くなり、大量生産はなされない。かわりに、プリコラージュや手仕事が奨励されているのだ。少数多品種の「生産」、というか芸術活動が労働に代わっているわけだね(ハンナ・アーレントの用語を使えば、労働がなくなって、活動と生活だけが残っているのだ)。人々の趣味もそれに応じて変化していて、もはやものや貨幣に執着しない。人生の楽しみ、人との語らい・自然との交歓・他者との友愛など、が目的になっているのだ。ここにいる人々は優雅で、芸術のセンスがあり、知的で、礼儀正しく、のんびりとしている。貧困の恐れや支援の不足などからくる不安がない。資産の再分配や格差の是正という問題もないので、政府はない。市町村レベルの共同体があり、ときに公共サービスや公共財をどうするかという討議が行われるが、時間をかけた末の投票で3回否決されれば案は破棄される。
 ここに描かれる社会は、カレンバック「エコトピア・レポート」や原秀雄「日没国物語」みたいな農本主義にもとづく、活動と生活の芸術化。信義と友愛の疑似家族。宗教と科学をともに廃棄して、理性で判断する共同体。それらの行動のベースにあるのは、人間の意識革命。家族、労働、国家を廃棄するには、なにより人間の意識が革命的に変わらないといけない。まあ、そういうことになるのかな。(追記:生活の芸術化がよくわからなかったけど、「茶道」「華道」「書道」あるいは「戦車道(!)」だと考えると納得できる。)
 読んでいると、たとえば革命の反動であったりサボタージュをしたであろう人たち(公務員やインテリや学者、それに政治や思想に関心をもたないちょぼちょぼの市井の人々、庶民)の行く末が気になるが、ここもとりあえずおいておこう。革命を推進した人たちが反対した人に寛容であったと願いたい(歴史上の暴力革命で寛容はめったにみられないのだが)。それよりも、未来の幸福な人々が悩みや不安を抱えていないのがむしろ気になる。ジェントルの気風をもち、他人にはやさしく、優雅であっても、俺には彼らの内実が空っぽに見えるのだ。革命の観念に取りつかれた怪物であるのかもしれない(フランス「神々は渇く」)。
 あるいは、彼らは西洋の近代がもたらしたもの(資本主義、貨幣経済、民族国家、科学技術、民主主義など)をすべて廃棄し、ローマ帝国よりまえの西洋に逆戻りしたのか。いずれにせよ、このユートピアでは歴史は終了している。そういう社会は、南洋諸島など外部と隔絶した地域では可能であり、最近まで存続していた。となると、このユートピアは、鎖国状態にあり、外を持たない閉じた社会であるのかな。
 どちらの場合(観念の王国か先祖帰りした部族社会)にしても、現在の国民国家の未来のロールモデルにはならない。なにより共同体になじめない自分にとっては行きたくない社会だなあ。

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 ウィリアム・モリスの労働観によると、労働は生活や活動に移っていって役目を終えるはずであったが、19世紀の労働環境は改善が遅かったし、20世紀にはテイラーシステムの分業によってさらに過酷なものになっていく。そこで、シモーヌ・ヴェイユの労働観もいっしょに見ておいた方がよいだろう。
2011/06/16 シモーヌ・ヴェイユ「工場日記」(講談社文庫)